「もう学校やめたい。ずーっと、地震の勉強ばっかりやねんで」
兵庫県立舞子高校環境防災科(神戸市垂水区)に進学した美幸さんが父、長尾政三(まさみ)さんにぶちまけた。
阪神・淡路大震災をきっかけに設立された全国初の環境防災科1期生として入学。震災の記録や体験を調べる日々が続いた。
ある日、神戸市消防局から消防士が講演に訪れた。消防士は阪神・淡路で救出活動に従事。美幸さんの母、裕美子さん=当時(43)=が亡くなった西市民病院(同市長田区)でも活動していた。
消防士は「1人だけ助けられませんでした」と語り、涙を流した。教室に裕美子さんの娘がいることなど知らない。学校側も知らず、まったくの偶然だった。突然、「母の死」に直面させられた美幸さんは見る見る青ざめ、胸が苦しくなり、顔を上げることすらできなくなった。
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父や兄は、美幸さんの前では母の話題を避けていた。だが、環境防災科の教師だった諏訪清二さん(54)は「そろそろ、向き合うべきやないか」と考えていた。
「全校行事で震災体験を話してくれ」。諏訪さんが頼むたび、美幸さんは「嫌や! 何でせなあかんの」と激怒した。「興味のない子に話しても空気を重くするだけやん」。ずっと、そう思っていた。
諏訪さんは粘り強く働きかけ、仲の良い同級生からも頼んでもらった。「1人が嫌なら、4人で発表してもらう」と説得され、美幸さんはようやくうなずいた。
高2の1月。わずか数分だったが、母の死、仮設住宅で目の当たりにした独居死を、初めて大勢の前で語った。発表の後、美幸さんは知人に手紙を渡し、こう書いた。
「震災を伝えないといけない。でも、体験を語るのは決して楽なことではありません」
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この日を境に、美幸さんは体験を語るようになった。3年生になり、震災体験を書く課題にも取り組んだ。父や兄のことが掲載された震災直後の新聞記事を読み返すと、面と向かって語られることのなかった思いが伝わってきた。
笑顔をなくした娘を心配した父。自暴自棄になりかけながら、妹を守ろうと決意した兄。「私はなんにも知らなかったなぁ…」。伝えることの大切さが身に染みた。
学校課題に、美幸さんは17歳の思いを書きつづった。
〈母と過ごした時間はたった8年ほどしかないが、物や時間に代えられないものをもらった。“産んでくれてありがとう”〉
(岩崎昂志、宮本万里子)
2015/1/22