知らなかったとはいえ、とても失礼な電話をかけてしまった。2002年の年の瀬である。慌ただしい気配だったので「かけ直します」と言うと、その人は「いや…」と話し始めた◆息子さんが病で亡くなったところだという。「でもご心配なく、約束だから」。約束とは年明けからの本紙「随想」への寄稿のこと。確か、きちんと送ります、と継いだ◆電話の相手は、アフガニスタンで凶弾に倒れた医師中村哲(てつ)さんである。悲しい記事を読み返すうち、あのときの声がよみがえる。波立つ心中をうかがわせない穏やかさ、それでいて揺るがぬ信念をはらんだ声◆アフガンとパキスタンでの長い支援も中村さんにすれば人々との約束だろう。医療活動、井戸掘り、用水路建設。きつい日々でも住民の顔を思い浮かべると「もう帰りますとは簡単に言えない」。そう話していた◆裏切られても裏切り返さない。思いやりや愛情を持ち、相手の身になって考える。その気持ちを失わなかったら「どこでもなんとかなります」。物騒な地を丸腰で歩き続けた人の背骨は、武骨でもまっすぐだ◆「随想」で書いた。「人として失えぬ誇りというものがある。私たちは人の命を守る戦いをさらに拡大・強化する」。誇りを砕いたのはどこのどいつだ。2019・12・6
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