■自伝小説に記した孤独と不安
どんぐり頭の少年が大きな目をぱちりと開き、こちらを見つめている。
日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成(1899~1972年)。彼が育った大阪府茨木市にある「川端康成文学館」を訪ね、10代の頃の写真に向き合った。
「現代ではヤングケアラーと言えるでしょう」。館長の高橋照美(61)がそう教えてくれた。
私が気になったのは、祖父を介護した経験を記した自伝「十六歳の日記」にある独白の一言だった。
「私の楽園」。それは家庭ではなく、当時通った中学校にいる時間を指す。
私は、110年前のまなざしに見入る。その視線の先に広がっていた日常を、さらに知りたいと思った。
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1902(明治35)年、3歳までに両親を亡くした川端は、祖父母に引き取られて現在の茨木市に住む。しかし、4年後の7歳の時に祖母も他界した。唯一の肉親となった祖父は目が見えず、寝たきりとなった。
14歳。学校にいる間は近所の大人の女性が家に来てくれて、下校後の時間を介護に費やした。枕元を離れず、食事や排せつの世話をする。遊びや勉強の余裕もほとんどない。日記には、祖父を助けたい思いと、目を背けたくなる現実に向き合う葛藤が記される。
〈苦しい息も絶えそうな声と共に、しびんの底には谷川の清水の音/「ああ、痛たたった。」堪えられないような声を聞きながら、私は涙ぐむ〉
川端の日記は14歳の5月16日で途絶える。その8日後、75歳の祖父をみとると、死後は親戚宅に身を寄せ、中学校の寮に入る。文学の道に進み「伊豆の踊子」「雪国」などの名作を生み出していく。
館長の高橋は「若くして唯一の肉親の死に際に向き合った。老いと死を直視したその経験は、彼が作家として大成する原点になったのではないか」と語る。
私は今年9月、川端が通った学校へ歩を進めた。田畑の広がっていた一帯には物流倉庫や民家が並び、片側1車線の車道が延びる。
〈私の幼い魂の苛(いら)立ちは、行燈(あんどん)のわびしい火影であった〉
川端は、自身の生い立ちをこんな言葉で振り返っている。ふと、足を止める。彼のその心境は110年後の今にも通じる気がした。
もちろん明治-大正期は子どもが家業や家族を支えるのが当然とされた時代で、現代の物差しで当時を語ることはできない。
それでも肉親の老いと向き合いながら、介護の先にある現実を振り払う。そばで支えることができる喜びと、自身の将来に対する不安がない交ぜになったまま、何も声に出すことのできない当事者は今もいる。
歩きながら汗を拭い、一つの問いが胸をついた。
川端をはじめ、いつの時代にも、家族の老いや死に向き合う若者はいただろう。そして福祉が充実した現代にも、やはり年齢に見合わないケアと向き合っている彼ら彼女らがいる。
家族のありよう、家族を取り巻く環境の何が変わり、変わっていないのか。それを伝えることは、未来のあり方を考えるための一助になるのではないか。
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神戸市須磨区で2019年、20代女性が介護していた当時90歳の祖母をあやめた事件は、8日で発生から7年となる。事件はヤングケアラーを社会にクローズアップさせ、行政や民間による支援が加速した。
事件をきっかけに始めた連載の第3章となる今回は、家族の変遷をたどりヤングケアラーの「今」と「これから」に目を向けたい。
今なお、気づかれない当事者は多い。どうすれば周りが見つけることができ、彼らはいざという時に声を上げられるのか-。それを考えるために、時を巻き戻す。=敬称略、年齢表記は満年齢=(千葉翔大)
【ヤングケアラー】家族の世話や介護をするおおむね30代までの子ども・若者。国の実態調査では中学2年生の約17人に1人、高校2年生の約24人に1人が「世話をしている家族がいる」と答えた。国は2024年に法律を改正し、国や自治体の支援対象として初めてヤングケアラーを明記した。
【川端康成(かわばた・やすなり)】1899(明治32)年大阪市生まれ。10代で作家を志し、東京帝大卒業後に同人誌「文芸時代」を創刊して新感覚派として注目を浴びる。68(昭和43)年、日本人の心を優れた感受性で表現したなどと評価され、ノーベル文学賞を受賞。























