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ちらっと見ただけでは、この猫がおおよそ1ヵ月間、ほとんど何も食べていないようには見えません
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ちらっと見ただけでは、この猫がおおよそ1ヵ月間、ほとんど何も食べていないようには見えません

このお話は、1本のお電話から始まりました。Bさんご夫妻から、16歳になる猫のMちゃんを往診してほしいとの依頼を受けました。高齢のご夫婦にとっては、いわゆる「最後の猫」でした。

Bさんご夫婦は、私が獣医師になりたての頃に診療した患者さんのおひとりです。とても猫好きなご夫婦のようで、「昔から絶えず猫が何匹か家におる」とおっしゃっていました。私が別の動物病院で勤務するようになり、疎遠になっていましたが、私が開業したことを伝え聞かれ、動物病院が苦手なMちゃんの往診に、連絡をくださったのでした。

Mちゃんは1カ月ほど前に一緒に暮らしていた猫が亡くなってからというもの、寂しさからか元気がなくなり次第に痩せてきたのだそう。そして、とうとう3日間嘔吐を繰り返し、その後何も食べなくなってしまったといいます。

腹部を触診してみると、ガスが異常に溜まっており、内部がよく分からない状態でした。嘔吐を止めて胃や食道を休ませる治療をしてみましたが、Mちゃんは3日経っても5日経ってもごはんを食べてくれません。

腹部のガスが抜けてから再度、触診とエコー検査をしたところ、小腸の一部に腫瘍があることが分かりました。悪性度は高く、「がん」でした。とても残念な結果でしたが、Mちゃんは高齢なので手術のリスクがあること、手術をしてそのがんを摘出しても、すぐに再発するだろうことなどを説明いたしました。

Bさんは、これまで何度も猫の最期に立ち会ってこられたこともあり、はっきりとおっしゃいました。「Mは高齢やし、手術はもうやめて点滴だけしてやってください。あとは、痛みだけは何とかしてもらえんやろか」

Bさんご夫婦はお歳を召され、奥様は歩行が難しくなっておられました。猫を飼うのはMちゃんで最後にしようと決められていたようでした。「最後の猫やし、よろしく頼みます」。私は、毎朝ご夫婦のお宅に往診に通いました。

   ◇   ◇

Mちゃんは2~3日に1回程度の嘔吐はありましたが、それほど体重も減らず目力もあり、日を追うごとに弱り切ってゆくといった様子は見受けられませんでした。

むしろ、私がやってくると捕まえられると思うようで、とっさに走って逃げる姿は、とても何日間も食べていないとは思えない素早さでした。そういえば、がんで亡くなる何カ月か前から、一切食べないにもかかわらず、毎日忙しくボランティア活動をこなし、あるとき静かにお亡くなりになった人間の話を思い出しました。Mちゃんもそんなタイプなのでしょうか?

しかし、Mちゃんに点滴しかできない私は無力感に苛まれました。Bさんに「最後の猫」といわれたことも、正直、大きなプレッシャーとなっていました。そして、私自身が日に日に辛くなってしまいました。

今の体力であれば手術ができる。手術をしたら、もしかしたら、Mちゃんは1年くらい生き延びるかもしれない…。Mちゃんの目をみてチカラを感じました。そして、Bさんに自分の正直な気持ちをお話してみました。「今であれば、手術できるギリギリの体力です。やってみませんか?」

Bさんご夫婦は一晩考えられた後、提案を受け入れてくださいました。そして、おっしゃいました。「最後の猫やし、よろしく頼みます」と。

Mちゃんのがんは手術で無事に取り除かれ、退院しました。Mちゃんはみるみる元気になり、ごはんをモリモリ食べるようになりました。これで良かったんだ…しかし、安心できたのはほんの2週間でした。Mちゃんは突然、食べなくなりました。往診にうかがい、腹部を触診すると、今度は最初のがんの10倍程の塊に触れました。その塊は周囲の腸管を巻き込んで、もつれた毛糸玉のようでした。もう、治す方法はありません。私は再度、BさんにMちゃんの余命宣告をしなければなりませんでした。

   ◇   ◇

しばらくしてMちゃんはがん性の腹膜炎で腹水が溜まり、お腹がポッコリ膨れ上がりました。あまりに膨らんで、胸が苦しくなったり身体を動かせなくなってきたりしたときには、腹水を抜く必要があります。すると、それから10日くらい経ったある朝、私が往診にうかがうと、Bさんから「腹水を抜いてほしい」といわれました。そこには、歩きながらふらついているMちゃんがいました。

病院に戻り、Mちゃんを診察台に乗せた瞬間、Mちゃんの意識がとびました。みると、Mちゃんの手足は冷たくなっていました。いよいよ天国からお迎えが来る…そう判断した私は、腹水は抜かずにすぐにBさんのお宅にMちゃんをお返しに行きました。「もうこのままご一緒に過ごされてください」とお伝えして、やるせない気持ちで病院へ戻りました。

そして、その日の午後に携帯が鳴りました。「先生、Mは今、亡くなりましたわ。最期は、苦しまずに静かに逝きましたわ。先生、有難うございました」

   ◇   ◇

はたして、今回選択した治療はベストだったのだろうか…。

最初に腫瘍だと分かったときに、速やかに摘出すればもっと違った展開になったのかもしれません。また、手術をせずにいた方が、Mちゃんは何カ月も静かに過ごせたのかもしれません。ただ、短い期間でしたが、Mちゃんはごはんをモリモリ食べて、元気だった頃の様子に戻りました。それが一時的であることは十分に理解した上でのご夫婦の笑顔を思うと、今回はこれで良かったのだと私は思いました。

ただ、今でもBさんのご自宅の前を通りかかることがあり、その度にいろいろな思いが巡ります。これまで何十年も常に猫がいたご家庭に、もう猫はいない。飼い主さんがご高齢になったときに、もう動物を飼えない、飼うことが制限されてしまうという状況は何とかならないものだろうか。

私の周囲には、ご自身がご高齢になったことを理由に、動物と暮らしてきた生活を手放す方々が大勢おられます。しかし、ご高齢になればこそ、そばに寄り添ってくれる犬や猫の存在は大きいのではないかと思います。たとえば、動物を飼っていると心臓発作のリスクが下がるといった、高齢者が動物と一緒に過ごすメリットを証明したデータはたくさん報告されています。

Mちゃんは飼い主さんに最期を看取ってもらうことができましたが、不幸にも飼い主さんが飼っている動物より先にお亡くなりになってしまうケースも多くあります。知人の獣医師は、高齢者に犬猫をレンタルするボランティアをしています。お世話が難しくなったら戻すというシステムです。人間の在宅医療に、飼っている動物のケアも含めた複合的システムを整備する必要があるのではないかと、私は考えています。

(獣医師・小宮 みぎわ)

2021/10/3
 

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