十日正午、摩耶・深江間が復旧、阪神高速神戸線の開通区間は柳原・深江間の十三キロに伸びた。真新しいアスファルトと遮音壁が、高架道路の行く手に伸びる。「きれいになったねぇ」。ベテランのタクシー運転手は快調に飛ばす。
「けど、なんぼ大丈夫いうても、コンクリートの中はどうなんかな…」
震災前、日本の耐震基準は「関東大震災級にも耐える」「世界一」といわれてきた。寸断された高速道路は、それを一挙に色あせたものにした。
耐震基準は関東大震災の翌年の一九二四(大正十三)年、「市街地建築物法」に初めて導入されている。二年後、土木構造物を対象にした最初の耐震規定「道路構造に関する細則案」ができた。
この案に取り入れられたのが「震度法」。複雑な地震動を水平の静的な力に置き換える画期的な耐震設計方法だった。戦前の三九年には、鋼道路橋の設計について、水平方向にその構造物の重さの〇・二倍の力がかかっても損傷しないような設計を求めた。
〇・二倍の力に耐える設計は当時、世界の先端を走る基準で、長く耐震設計の基本となった。阪神高速のような道路橋の耐震基準もこれと同じ数値。他の部分も、大地震のたびに見直されてきた。
六四年の新潟地震で地盤の液状化によって橋が落ちると、七一年には液状化対策が盛り込まれた。その後も宮城県沖地震(七八年)、日本海中部地震(八三年)など、弱点を補う形で道路橋の新しい設計基準をつくっている。
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「なんでや。なんで湾岸線が落ちたんや。あそこはうちの最新鋭やのに」
地震が起きた直後、神戸・ハーバーランド内にある同公団の神戸第二建設部は「まさか…」という空気に包まれた。
すぐに図面が取り出され、机に並んだ。いったん切れた公団本社との電話回線が回復、ほどなく第二報が入った。「走行中の乗用車二台が落下した橋げたから滑り落ち、二人が死亡」という知らせだった。
阪神高速湾岸線は八〇年の新しい基準で設計され、液状化、落橋対策などを盛り込んでいた。公団自慢の道路が、なぜ落ちたのか。公団は説明する。「これほどの直下型は考えていなかった」。
新しい八〇年の基準でも、直下型の大地震までは念頭になかった。震災後、耐震補強の必要性を強く訴えている家村浩和・京大工学部教授は「被害がないと金をかけることは難しい。補強をしても、何も起こらなければ『負の投資』と考えられてしまう。本当は『プラスの投資』なのだと理解してほしいのだが」と、安全の前に経済性の壁があることを話す。
阪神高速は全長二百キロ。高架道路の橋脚数は約七千本に及ぶ。この中には神戸市東灘区で倒壊した一本脚構造の道路が大阪府下にもある。
公団は、九七年度末までに一本脚と門型の橋脚四千八百本すべてを「阪神大震災クラスでも耐えられる」という新基準で補強する。工事はスタートして一年半、まだ半数が残っている。
高架高速道路が倒壊した米国・サンフランシスコのロマプリエタ地震(八九年)。カリフォルニア州では、耐震補強が計画的に進められており、補強していたかどうかで被害が分かれた。地震後、米国でまとめられた報告書はこんなタイトルが付けられた。
「時間との戦い」
1996/8/14