七日午後、岡山県備前市蕃山。山あいの水田地帯を時折、新幹線が走り抜ける。杉田登さん(74)はトラック運転手だった二男、佳男さん=当時(35)=の遺影の前で、北村広太郎・阪神高速道路公団理事長に迫った。
「高速道路がああも簡単に倒れたのは、問題があったからじゃないのか」
約一時間に及んだ話し合い。しかし、公団トップの口からは、疑問の解消につながる言葉は最後まで出てこなかった。
理事長の訪問は、先月末に突然、告げられた。震災後、公団役員が遺族を訪問したことはなかった。
阪神高速神戸線は九月末、一年八カ月ぶりに全線開通する。「気持ちを整理するうえで代表者の話を聞きたいという遺族の要望にこたえた」とする公団。だが、遺族の間からは「今ごろになって何をしに来るのか」という声がもれる。
あの日、佳男さんは十一トントラックで大阪に向かう途中、神戸市東灘区深江本町で、神戸線の倒壊に巻き込まれた。
「落ちる、落ちるーっ」。後続のトラック仲間の無線に飛び込んだ二度の絶叫が、最期の声だった。体重九十キロの恰幅(かっぷく)の良い体は、運転席とともに押しつぶされた。
その年の九月、初めて現場へ足を運んだ登さんは、付近に建つガソリンスタンドや民家を見た。「高速道路だけあんな風に壊れるのか」。年明けに神戸で開かれた公団の報告会では「予想を超える地震が原因」と言われた。納得できなかった。設計課長らに、再度、説明を求めた。
「われわれに落ち度はありません」
「ではなぜ、周囲の建物は残っているのか」
結局、疑問だけが残った。
登さんの手元に、佳男さんが最期に握っていたハンドルがある。太さ約三センチもある握りの部分は湾曲し、全体が卵形に変形している。手にする度、何とか車体を立て直そうとしたであろう、息子の姿が脳裏に浮かぶ。
「設計ミスにせよ手抜き工事にせよ、あくまで公団に落ち度があった。息子は、殺されたも同然だ」
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深江本町から東へ約四キロ、西宮市本町の国道43号東行き車線。道路端の緑地帯に、六十センチ四方のコンクリート製の土台が残っている。
先月十三日、竜野市に住む楠本朝子さん(51)は、娘夫婦や孫ら六人と共にその横に立った。「ここや」「この上に標識があったんやな」。汗をぬぐいながら、静かに言葉を交わす。
一年半前、国道をまたいで設置されていた標識の上に、阪神高速の橋げたが落ちた。押しつぶされた標識は、夫の昌宏さん=当時(49)=のセミトレーラーを直撃した。
「子育てが一段落し、夫婦の時間を築いていこうとした矢先のこと。夏には二人で九州へ旅行に行こうか、って話してました」。以来毎月一回、夫が命を落としたこの場所へ来る。
高速道路の新しい橋げたが、夏の日差しを遮っていた。復旧工事の骨組みや、プレハブの作業小屋はきれいに片付けられた。散乱していた建設材料もなくなった。標識の土台が、数少ない目印の一つになった。現場は、すっかり様変わりした。
「でも、いまだに夫が死んだという実感がわかない。私の気持ちの整理はまだ、ついていません」
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倒壊の原因から、都市部を走る高架式道路への懐疑まで。高速道が横倒しになるという信じ難い情景を前に、多くの疑問が噴き出した。一年半余りを経たいま、どんな「答え」が出ているのか。神戸線の全線復旧を前に、あらためて追った。
1996/8/9