批判が、ずしりとこたえた。
震災から半月後。当時、神戸・長田消防署の救急係長だった鍵本敦さん(37)は、毎日のように記者に会った。番組や記事は「なぜ火災を消せなかったのか」と批判を繰り返した。
あの日は当直だった。揺れで外に飛び出すと、既に煙は上がっていた。水がない。人が足りない。冬には珍しい東風。こんな時に限って風が強くなる。「たき火をストローの水で消す」ような現場だった。
二、三日もすると、署内で怒号が聞こえ始めた。寝ずの活動で、だれもが殺気立っていた。電気がなく、弁当もペンライトで照らして食べた。ちょっとしたことで、けんかが起きた。
自宅に戻ったのは、六日後。家族の顔を見て安心はしたが、バスが走り、パチンコ店が開いている街に、何か違和感を覚えた。
仕事柄、悲惨な現場に直面するのは当然だと割り切っている。鍛えられてもきた。しかし、あれほど達成感のない現場は初めてだった。その上に、各方面からの批判がのしかかった。
今、新しい消防マニュアルを作る仕事を任されている。他都市の先駆けになる内容にと思うが、「震災の風化」が立ちはだかる。「神戸には、もう地震はない」という声も聞く。それが腹立たしい。
自分を癒すもの。それは同じ体験をした隊員との語り合いだ。「仲間と気持ちを吐き出す。それが一番」
震災は被災者だけでなく、消防や警察、ボランティアなど「救援する側」の心のケアに光が当てられた日本で初めての災害だった。
こころのケアセンターは、震災から一年後と二年後、兵庫県内の消防職員を対象に調査した。被災地の職員の半数近くが「命の危険を感じた」と回答。二年後でも、命の危険や悲惨な光景にさらされた職員の約二割はPTSDに相当する症状を示し、危険に直面していない職員よりも高率だった。一方で、被災地の職員の六割以上が「同僚との励まし合い」で力づけられたと感じている。
救援側の心のケアを当然とする土壌は、できたとは言いがたい。米国で広まるストレス対処法「ディブリーフィング」(専門家を交えたグループでの体験報告)は形式への抵抗もあって、日本にはなじみにくい。同じ場に、上司と部下が同席すればなおさらだ。
「しかし、震災は少なくとも、ストレスケアを『個人の問題』と片付けるのでなく、組織として取り組むきっかけになった。仲間との会話の大切さも再認識した」と神戸市消防局。今、三度目の調査が進む。
1999/10/16