親の遺影を見せ合いながら、子供たちが笑顔で言葉を交わしていた。
一月十三日。レインボーハウスで開かれた「今は亡き愛する人を偲(しの)び話しあう会」。あしなが育英会としては七回目、ハウス完成後は四回目になった。
会場のホールに入り、三年前に同じ場所で開かれたしゅん工式を思い起こした。震災から四年たって、ようやく迎えた出発の日だった。幼い遺児の胸に揺れる紅白のリボンが、誇らしげだった。しかし、未知の試みへの緊張と、遺族の悲しみがまじり合ったような空気も、漂っていた。
その時、高校一年の女の子が読んだあいさつ文が心に残っている。彼女は震災前夜、母親にしかられ、「こんなお母さんいらんわ」と思ったという。その母は翌朝、「布団かぶって、じっとしときや!」と大声で叫んだ後、亡くなった。彼女は、母の死は自分のせいだと思い続けた。そんな重い苦しみを、声を詰まらせながら語っていた。
今年の会に、成長した彼女の姿があった。今は専門学校生。幼い遺児のお姉さん役を立派に果たしていた。将来の夢やハウスの十年後を寄せ書きした時、「今のチビッコがいい年になって、みんなで懐かしい話!? 飲みにでもいきたいなあ」と書いた。そんなふうに未来を描けるようになったのだ、としみじみ感じた。
レインボーハウスが積み重ねた経験は、海外の大地震でも生かされてきた。
一九九九年のコロンビア、トルコ、台湾。昨年のエルサルバドル、インド。震災遺児らが街頭に立ち、現地の遺児のために募金を送った。一昨年には、台湾に同じ名前の「彩虹屋」が誕生した。
職員の樋口和広(36)は昨年から、エイズ遺児が最も多いアフリカ・ウガンダに常駐し、ケア拠点づくりを進める。
一昨年からは年一回、各国の遺児がハウスに集まり、「国際的な遺児の連帯をすすめる交流会」も始まっている。
そして今、あらゆる遺児が集う国内のセンターとして計画されているのが、「東京レインボーハウス」(仮称)だ。「二〇〇四年度には完成させたい」と、あしなが育英会会長、玉井義臣(66)。神戸のハウスも、〇二年度以降、震災以外の遺児に開放される。
震災から七年。今も、亡き親の話に触れられない子がいる。レインボーハウスに来られない多くの遺児もいる。
そんな仲間に呼びかけるように、今年の会では、震災で両親を失った短大生が一編の詩を読んだ。
「夢であったらいいのにと 何度も思った/死にたい 逃げたいと思う/毎日つまらない
そんな時 春風が吹いた あたたかく/氷を溶かしてくれる(略)
勇気を 希望を 笑顔を/決してあきらめない強い心をもらった…」
震災の時は小学生だった。たくさんの優しさを受け止め、ここまで歩んできた。はじけるような笑顔がどこまでもまぶしかった。(敬称略)
(記事・磯辺康子)
=おわり=
メモ
<虹のかけはしさん>
年間約1億円かかるレインボーハウスの運営を、継続して支える寄付者。随時募集しており、名前はハウス玄関の銘板に刻まれる。育英会はこのほか、海外の遺児支援、東京レインボーハウス建設の募金なども行っている。