「七回忌の後、少しほっとしたよね」
日曜日。レインボーハウスのリビングルームから、若い母親たちの会話が聞こえてくる。和やかな空気。時々、外で遊ぶ子供たちが「おかーさん」と入ってくる。
ここにいるだれもが震災で夫を亡くし、幼い子供を育ててきた。
和美(37)は、小二、小四の兄弟の母親。震災で、神戸市内の店舗兼住宅が全壊し、一階の仕事場にいた夫だけが亡くなった。二階には、自分と当時一歳の二男。三歳の長男は、千葉にいる夫の両親宅に泊まっていた。夫が救出されたのは、震災三日目の朝だった。
長男は地震を経験しておらず、父親との最後の対面もできなかった。二男のほうは、父の顔も覚えていない。父はずっと「写真の中の人」だ。
震災後の生活は、姫路の実家で始まった。人間が死ぬということを、幼い子にどう説明すればいいのか、和美は分からなかった。「神戸のおうちに帰りたい」という長男には、「お父さんは壊れたおうちを直してるの」と言い聞かせた。
一年たったころ、長男に「地震で亡くなった」と伝えた。幼いながら、それまでの疑問が解けたような顔をした。
震災は結婚四年目。悲しみより、不安のほうが大きかった。
ほかの遺児家庭と初めて接したのは、震災一年を前にあしなが育英会が開いた「クリスマスのつどい」だった。「遺児って、たくさんいるんだなあ」。そう思った。
親同士でゆっくり語り合うようになったのは、三年前、レインボーハウスができたころからだ。ハウスは、遺児だけでなく、配偶者を亡くした親、遺児を育てる祖父母らにも、安らぎの場になった。
和美は、幼い子を抱える母親たちに共通の悩みを感じた。子供が成人するまでの長い年月。家事と仕事の両立。そして、親せきとの付き合い。そんなことをすべて話せるのはこの仲間だけ、と感じる。
昨春、姫路から神戸に戻った。ハウスに近い公営住宅に申し込み続け、ようやく当選した。子供たちは学校帰りにハウスに寄り、仕事から戻る母を待つ。心のケアプログラムにも通う。子供なりに、父が亡くなるのは悲しいことなのだ、と少しずつ理解し始めているように見える。
「あんなとこからはい上がってきたから、怖いものはないねえ」
「強くならざるを得んかったわ」
母親たちの会話が続く。七年の出来事を、笑って話せるようになった。和美には、夫と暮らした月日より、震災後のほうが長くなった。(文中仮名)
メモ
<震災遺児>
1995年にあしなが育英会が行った調査で判明したのは、573人。「父死亡」が33%、「母死亡」が46%、「両親死亡など」が21%。当時、就学前の子供が13%、小学生23%、中学生21%。現在、約半数は成人している。