レインボーハウスに、「グループタイム」と呼ばれる時間がある。
震災遺児の癒(いや)しにとって、最も大切なプログラム。同じ体験を持つ仲間との遊びや語り合いを通し、心の内にたまったものを吐き出す。年齢、男女別に、七グループがある。月二回、約一時間半。大介(18)は「高校生以上男子」に参加する。
小さな子供と違い、雑談やトランプといった過ごし方が多い。高校生、大学生、社会人・と、立場はそれぞれ違う。共通の話題が豊富、というわけではない。それなのに、テスト中でも、仕事で疲れていても、ほとんどの顔がそろう。
大介は高校中退後、大学入学資格検定(大検)に合格し、今は受験生。「会える時に会っときたい。会うのがうれしい。地震の話をするわけじゃないけど、何か通じるものがあるねん」という。
あしなが育英会が遺児調査や「つどい」などを重ねた最初の四年間。レインボーハウスができてからの三年間。
「ここの人たちに会ってなかったら、自分はどうなってたんかな」と、大介は最近考える。
母の不在が身に染みるようになった中学生のころ。育英会の職員にさえ反発を感じるようになった自分に、手を差し伸べてくれたのは、ほかでもない、その職員や学生ボランティアだった。
彼らの多くが事故や病気で親を失った、と聞いた。亡くした原因は違っても、その後にたどる心情は重なった。自分と同じ仲間の存在に気づいた。学校の親友にも、震災で親が死んだことを話せるようになった。
しかし、高校入学後、大介の心は再び揺れ始める。「退屈やった」「だるかった」。行かなくなった理由は多く語らない。周囲の声も聞かず、どこか勢いでやめてしまった。退学後は、ひたすら遊び回った。
そんな日々の中でも、ずっと心にひっかかっていることがあった。「大学に行かせたい」という生前の母の言葉。このままで一生終わったらあかん、と勉強を始めたのは十七歳の夏だった。
昨年十一月、大検に合格した。応援してくれたレインボーハウスの職員らが、泣きながら喜んでくれたことが忘れられない。
毎年一月。震災の光景を、テレビで見る機会が増える。
犠牲者の追悼のために、何千本ものろうそくがともされているのを見ると、大介は心が温かくなる。「うちのおかんの分もしてくれてるんやなあ。がんばってや」と。
震災を忘れない人々がいる。それがうれしい自分がいる。言葉はなくても「人と通じ合う心」を、この七年、大介ははぐくんできた。(文中仮名)
メモ
<グループタイム>
レインボーハウスが完成した1999年に始まった。現在、7グループに40・50人が参加。ディレクター(職員)と、ファシリテーター(ボランティア)が加わり、遺児たちの「気持ちの吐き出し」を見守る。