日が暮れる。外は寒風が吹く。レインボーハウスの一室に、ボランティアが集まり始めた。
「最近、いかがですか」
職員が切り出す。「合唱をやってて」「私はただ普通に過ぎてる感じ」…。談笑が三十分ほど続く。
震災遺児の心のケアで、気持ちの吐き出しを見守る「ファシリテーター」(促す人)たち。雑談に見えるこの光景には、意味がある。子供と接するのを前に、心を落ち着かせる大切な時間だ。
活動は月二回。事前に有料の講座を受け、登録する。主婦、会社員、学生・。年齢は幅広い。
上田裕之(35)=芦屋市=は幼稚園の先生。自宅は半壊し、住み慣れた街は壊滅的な被害を受けた。受け持ちの子に犠牲者はなかったが、震災死は身近にあった。「もっと何かできたんじゃないか」という思いが、心に残っていた。
一九九九年、レインボーハウスが初めて開いた「ファシリテーター養成講座」を新聞で知り、応募した。「日本には、遺児をケアする場所がまったくなかった」という講師の言葉に、「本当だな」と思った。子供にかかわる仕事をする自分でさえ、そういうことを考えたことがなかった。
活動を始めて二年半。ファシリテーターでは最長だ。子供と接し、震災と人の死を深く考える。
普通なら、他人からはめったに触れられない「親の死」。しかし、震災の場合、社会がいや応なく思い出させる。遺児はそういうことを、背負っていかねばならない。そして、一月十七日は「震災七年」などという節目ではなく、彼らにとっては親の命日なのだ、と思う。
神戸市西区の主婦大滝由美子(52)は、昨年二月、第五期の養成講座を受けた。
仮設住宅の食事会などのボランティアにかかわってきた。レインボーハウスの存在は以前から知っていて、仕事を辞めたのを機に、思い切って飛び込んだ。震災の年に父親をがんで亡くした。講座はくしくも、自分を見つめ、気持ちを整理する場になった。
最初は緊張した。「何かの拍子に、子供たちの心の傷を開かせてしまったら」と。しかし子供たちは温かく迎えてくれた。幼くして重い荷を背負い、一生懸命生きている姿に、畏敬(いけい)の念さえ感じた。自分のほうが励まされる。「あしたも頑張ろう」というエネルギーをもらう。
震災前、奨学金事業が中心だったあしなが育英会は、レインボーハウス建設後に初めて、ボランティア受け入れの体制を組んだ。「市民ボランティアは、レインボーハウスと社会を結ぶ存在」と、職員の細見一雄(29)はいう。
ファシリテーターの講座修了者は、二百二十五人。二月には、六期目が始まる。遺児の心を、受け継ぐ市民がいる。(敬称略)
メモ
<ボランティア>
庭木の手入れ、放課後の学習塾、長期休暇にハウスに来る遺児の遊び相手などは、一般市民が中心。スキーなどの遺児の「つどい」は、ハウス内の学生寮に住む奨学生らが主に支える。現在、24人のファシリテーターをはじめ、約150人が活動する。