ギターを手にした大介(18)の、のびやかな歌声が響いた。
ありがとう
いつもそばにいてくれた友のために
ありがとう
喜びにも悲しみにも
そして今ボクがいる
昨年十二月、神戸のホテル。阪神・淡路大震災で親を失った子供の心のケア拠点「あしなが育英会・レインボーハウス」のクリスマスのつどいが開かれた。大介の自作の歌「ありがとう」。じっと聴き入っていた仲間たちの顔に、笑顔と涙が交じり合った。
震災遺児が集まり、語り合う年数回の「つどい」。大介が初めて参加したのは、震災の年の三月。育英会としても初めての試みとなった有馬温泉でのつどいだった。小学五年生だった。
両親と姉の四人家族だった大介は、震災で母を亡くした。前夜、大介は自分の部屋ではなく、居間で寝ていた。気がついた時にはもう、つぶれた家の下敷きになっていた。体の上に、母がかぶさっていた。その時間、母は朝の支度を始めていて、とっさに自分を守ってくれたのだ。
「自分の部屋で寝とったら、こんなことにはならへんかったかも…」。自宅近くの集会所で始まった避難生活。一人になると、そんな思いが頭をかすめた。しかし、そのころ、悲しみとか、怒りとか、激しい感情がわき起こった記憶はない。
「通うのが当たり前だった学校」に、ひたすら物資を取りに行く日々。「こうせな、しゃーない」。しいて言えば、そんな感じだった。
同じころ、東京に本部を置く育英会は、被災地に職員を派遣し、遺児調査を始めていた。学生ボランティアらが、遺児を一人ひとり探した。大介のもとにも、学生がやって来た。一緒に遊んでくれた。そして、有馬温泉のつどいに誘われた。記憶に残るのは、大学生と暴れ回ったこと。ただ、楽しかった。
大介が母の死を実感したのは、むしろ、中学に入ってからだった。
級友の弁当には、母親が作った色とりどりのおかずが並んでいた。父が作った自分の弁当は、おかずが少なかった。だれもが体験したはずの震災。なのになぜ、自分だけ母親がいないのか。母の味が、懐かしかった。
育英会の「つどい」に参加しても、職員や学生ボランティアへの反感が芽生え始めた。「あんたらに、何が分かる」。自分の気持ちを理解したような顔をする大人が、腹立たしかった。
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そして、七年。仲間の遺児らを前に、感謝の心を歌う大介がいた。
レインボーハウスでもらったもの。それは「愛されている」という実感。つぶされても、また積み上げる強さ。生き方を見つめる時間。はにかんで答える笑顔に、流してきた涙が詰まっている。(文中仮名)
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親を失った子供を支援する民間団体「あしなが育英会」が、神戸市東灘区に震災遺児の心のケア拠点「レインボーハウス」を建設して、三年になる。長く癒(い)えることのない遺児の心。日本初の試みに、試行錯誤の職員やボランティア。その歩みをたどる。
(記事・磯辺康子)
メモ
<レインボーハウス(虹の家)>
1999年1月9日に完成した。建設費約15億円、年間運営費約1億円はすべて募金。公的助成はない。名称には、遺児の男の子が描いた「黒い虹」の絵が七色になるように-との願いが込められている。