神戸デパートは再開発で生まれ、再開発で消えた。
一九六五年、長田。大正筋など商店街のにぎわいに陰りが見え始めていた。市街地改造事業。その全国第一号が神戸デパートだった。以後、全国の駅前再開発のモデルとなる。
「まさにシンボルだった。木造平屋ばかりのまちに、ぽこっと。輝いていた」。七階にあった中華料理店のしにせ「神戸飯店」の林攸樹社長(58)が目を細めた。
現在、現地で震災復興の再開発を手掛ける神戸市の市原俊彦参事(55)は「神戸デパートは画期的だった。後にも先にも例がない」と振り返った。
建設用地の地権者の多くがビル床を所有せず、管理会社の株主に。代わって、市と民間が出資した管理会社が、一括して床を所有した。
「管理会社に全体をコントロールする機能を持たせた。そうすることで、出店テナントの配置やセールなど、一体的アレンジが可能になった」と市原参事。
駅前再開発ビルは、文字通り「デパート」として機能した。
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先駆的な手法で注目を集めた神戸デパートだが、九〇年代に入って空テナントが目立ち始めた。
「ここは市街地。郊外型の大型店という経営方針に合わない」。三フロアを占めていた「イズミヤ」が撤退を発表した。震災前年、年の瀬のことだった。厳しさを増す経営環境。そこへ、震災が直撃した。
九九年秋。デパートの跡地に再開発ビル「アスタくにづか一番館」がようやく建った。が、商店主たちの多くは高齢に達し、商売の継続そのものが危うくなっていた。
「うちは娘二人。遠からず店を畳むことになる」。室内装飾店「上田ルーム」経営の澤田洋さん(69)が寂しく笑った。
「これから若い住民が増えても、こっちが年を取ってしまって対応できない」。アスタの仮設店舗を借り、年金で商売を続ける日々だ。
婦人服店「エル」の武田安司さん(61)。震災後、約三百メートル北のJR駅前に移った。「今回はエリアが広すぎるわ。さらにかつての管理会社のようなまとめ役がいない。それぞれの店主が権利を主張する。これではなあ」
二度目の再開発。一度目の成功を生かし切れない。神戸市は事業再構築を検討し始めた。
2003/1/16