確かにデパートは建っていた。だが、「使用不可能」を言い渡された。
一九九五年一月十七日、阪神・淡路大震災。かいわいの被害は大きかった。多くの商売人が店を失う。商都・新長田は沈黙した。
デパートの商店主たちの動きは早かった。有志二十二店で「復興協議会」を設立。当面の目的は、共同仮設店舗の設置。だが、趣意書の冒頭には「デパート復興」の大目標が掲げられていた。
一階にあった靴「マルヤマ」の丸山慶典さん(45)。「私らは店を開いてなんぼ。営業を再開したい。その一心だった」
三月、一階部分の軒下に仮設店舗が並ぶ。ささやかな第一声。たちまち長蛇の列ができた。被災者は商品と「元気」を求めていた。
とはいえ、スペースが狭かった。八店分。食料品を扱う店は出店が不可能だった。多くの商店主が、再起の場を求めて散っていった。
跡地一帯は復興再開発事業に組み込まれた。計画では新長田のまちに約三十のビルが建つ。「デパート復興」は風前の灯火(ともしび)だった。
その年の秋、神戸デパートは土ぼこりとともに姿を消す。解体。同時に仮設の営業も終了した。
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子ども服「エガオ屋」。大正筋を挟みデパート跡地の向かいで営業を続ける。経営する辺見和代さん(61)は、複雑な思いで跡地に建った再開発ビルを眺める。「震災前、以前のにぎわいはもうなかったが、まだ看板に重みがあった。それをなくしてしまった。失敗やったんちゃうか」
将来、出店できると聞いているが、そのつもりはない。神戸デパートでなければ、意味がない。
震災直後、営業再開に情熱を燃やした丸山さん。拠点を別の店に移し、神戸市内に靴「GAL」十店舗を展開する。やはり再開発ビルには戻らない。今、「テナント店主が束になって意見できていたら、再開発のまちづくりも変わっていたかもしれない」と思う。
だが、無理だった。まず商売を建て直す必要があった。時とともに、一つにまとまる機会は失われた。
丸山さんが言った。「デパートの経営会社の解散で、私たちが発言する権利はなくなった」
再び、あの場所に。商店主一人ひとりの思いは、林立するビルの中に消えていった。
2003/1/15