阪神・淡路大震災は神戸デパートにとって、二度目の災難だった。
一九七四年二月十七日の深夜。国道を隔てデパートの向かいに住んでいた呉服「大福」の塩谷裕さん(58)は、けたたましい消防の音に「何事や」と外を見た。「デパートが火事や」。
火は二十時間にわたって燃え続け、一・五階のフロアの三分の二を焼いた。放火が原因だった。
鎮火後、塩谷さんは他のテナント出店者らと焼けたフロアに入った。店があったのは二階。一部で天井が落ち、上の階と話ができた。絶望的な気分で、天井の穴を見上げた。
立ち直りは早かった。鎮火二日目。テナントが団結して「再建対策委員会」を組織した。神戸市も支援の要請に応じ、潤沢な資金でデパートの経営に参入。歯車ががっちりとかみ合った。
復旧工事の間、跡地近くの空き地や地下道に仮設店舗が並んだ。中心は四十代の若い商売人ら。当時三十歳の塩谷さんもワゴン二台に商品を並べ、再オープンの日を指折り数えた。
売り上げはさほどでもなかったが、活気は十分。同じ渦の中にいた手芸用品「ミヤケ」の三宅淳介さん(65)が振り返った。「レース前の競走馬のようだった。ムチを入れれば、すぐにでも走り出せた」。
十カ月後、デパートは再オープン。開店と同時に、待っていた客がフロアに流れ込んだ。
火災から二年。オイルショックによる不況下ながら、神戸デパートは過去最高の年間売り上げを達成した。
◆
二十九年後の今、デパート跡地一帯で復興再開発事業が進む。
塩谷さんは震災前に展開していた別の店に拠点を移した。あの時と同じ、復旧を待つ日々を送る。だが、「状況はまるで違う」と言う。
「火災は私らだけが被災したが、震災は違う。みんなが被災者。何より、商売人が年を取って元気がなくなった。跡を継ぐ者もおらん」
一度目の災難は十カ月で復旧した。二度目の災難から八年、まだ形は見えない。
年々、商店主たちの体力と気力が衰えていく。
2003/1/14