屈強な男たちが、おえつを漏らした。警視庁機動隊。西宮・仁川の地滑り現場で夜を徹した作業の果てに、うつぶせの頭を見つけた。その下に折り重なり、親子三人が亡くなっていた。
第三機動隊副隊長だった村瀬美文警視正(55)は絶望感を抱いた。「生きて待つ人のところへ行くべきでは」。しかし、それがどこなのか。「要救助者の多い地域が早くに分かっていたら、もっと多くの人を助け出せた」
警視庁に兵庫県公安委員会から援助要請のファクスが入ったのは、震災当日の午前九時十五分。警視庁側の催促によるものだった。第一陣百四十二人が分乗したヘリコプター五機の一機目が、大阪空港に降り立ったのは午後三時。仁川到着は夕刻だった。
伊丹、西宮市街地で三日間にわたり活動したが、二十八人の遺体を搬出、生存者救出は一人だった。
県外からの応援部隊は、初日だけで計七千人に上った。最終的には警察四十三万人(一九九五年七月末)、消防三万五千人(同三月末)、自衛隊二百二十五万人(同四月末)に膨らんだ。
消防隊は、ホースの結合金具が合わないケースもあり、無線の全国共通波が一波しかないなど、連携に手間取った。今、結合金具の問題はアダプターを装着することでクリア。共通波は三波になった。
国は九五年六月、全国消防選抜の「緊急消防援助隊」を発足させた。「要請主義」からの脱却を図り、消防庁長官判断で、深刻な被害で知事などが要請を出せなくても、隊員を送り出せる体制を組んだ。同様に警察も「広域緊急援助隊」を組織している。
それでも万全とはいかない。
東海地震が迫る静岡県。地震の予知ができた場合、初動期に最大五万人の応援が想定されている。ヘリによる出動の迅速化も図られたが、広範囲で交通網の寸断は必至だ。
岩田孝仁防災局防災管理室専門監は「救援の主力となる地上部隊の手が届くには時間がかかる。そう覚悟を決めなければならない」と語る。
東京消防庁第八消防方面本部(立川市)。阪神・淡路へ派遣された隊員の経験を基に、消防救助機動部隊を設けた。通称「ハイパーレスキュー」。重機からダイナマイトまで扱う、エキスパート集団だ。今和泉(いまいずみ)健一部隊長(49)は、一次派遣メンバー五十六人の一員として神戸市内で三日間活動した。
鉄筋コンクリートの建物に胴部を挟まれた学生がいた。「コーヒーが飲みたい」。缶コーヒーを渡すと、飲み干した。救出され、搬送中に意識を失い、亡くなったと聞いた。「挫滅症候群(ざめつしょうこうぐん=クラッシュしょうこうぐん)」だった。
住民で助け合えるのは、比較的軽度の生き埋めに限られる。残されるのは、困難かつ一刻を争うケースばかりだ。技術と質が問われる。「がむしゃらに引っ張り出すだけが能じゃない。社会復帰できる救助を目指す」。これも応援から得た教訓の一つだった。
2004/7/25