一冊のマニュアルがある。A4判、八十四ページ。神戸市消防局の「震災消防計画」。一九九九年に策定されて以後、いまだ公表されていない。
「初動時は全組織力を挙げて消火活動に着手する」と、その計画はいう。「全組織力」には救急を含む。火災対応の最優先は、救急、救助といった任務を一時凍結させることを意味する。ここまで明確に記したものは、全国でも珍しいという。
阪神・淡路大震災の初日、神戸市内の火災は百九件、甲子園球場の二十倍に及ぶ延べ約八十万平方メートルを焼失した。警察庁によると、「焼死およびその疑い」の死者は五百五十人。消火優先を打ち出す原点だった。
「やっつけ消防」。同消防局は、そう呼ばれたことがあるという。現場でなんとかする、という気風。臨機応変の動きができる、と解する人もいる。震災のときも、隊員らは現場判断で走り回った。まさに「やっつけ」の状況だった。ただ、平時とは訳が違った。
「組織的対応ができなかった反省が大きい」。水島隆消防司令(45)は、震災消防計画の原案に思いを込めた。
焼失面積が最も大きかった同市長田区では、地震直後に十二件の火災が起きた。長田消防署の消防車両は七台だった。延焼阻止と並行して救助にもあたった。すべての現場に車両を配置するのは無理だった。
管内の菅原市場に真っ先に到着したのは、垂水消防署の五人だった。地震の二時間半後。既に五千平方メートルが炎上していた。同署の別の隊は途中、道路で手を広げる被災者に止められ、救助に向かった。糺(ただす)常寛消防司令補(55)は、火勢に押されて焦りを覚えたとき、「助けてくれ」と声を掛けられた。手を引かれ、暗がりの市場内に入った。女性が梁(はり)の下敷きになっていた。
梁は想像以上に重かった。小さく見えた赤い火が大きく迫ってきた。熱くて耐えられなくなった。「あとで助けてあげる」と言い残し、退避した。市場から黒煙が噴き出した。アーケードの骨組みだけが残った。
周辺で発見された遺体・遺骨は六十人に上った。
阪神・淡路で、火災が大規模になった要因として、密集市街地での延焼▽同時多発による消防人員などの不足▽水道管被害による消火栓の使用不能-などが挙げられる。
その上で、東京大大学院の関沢愛客員教授(都市防災)が解説する。「消火活動の成否を決するのは一、二時間。発生直後は火災との戦いに専念したいのが消防組織の本音」
被災地の消防士たちは、救助という点でも頼りにされた。消火優先の震災消防計画。世間の理解を得られるのか…。神戸市消防局は、外部への公開をためらった。
計画に沿った火災のシミュレーションでは、焼失面積が当時と比べて「85%減」になったという。ハード面や街並み整備が進んだこともあるが、「甘い」という批判を恐れた。これも公表を避けてきた理由だった。
しかし計画は、震災を教訓にした消防士たちの「誓い」だった。「火消しは自分たちにしかできない」
迎える震災十年。同消防局は、自分たちの“限界”を共有してもらうため、概要版を作成し、計画を公表する検討に入った。
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倒壊家屋などから救出し、人命を守ることができるリミットは、一般的に七十二時間といわれる。消防士や警察官たちが見た阪神・淡路の現場をたどり、災害時の初動対応を考える。
2004/7/21