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(3)空白 全容把握へ「攻め」強化
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 今年五月下旬、神戸大学工学部の鍬田(くわた)泰子助手(地震工学)が、ある「住宅地図」の分析結果をまとめた。

 地図には、赤鉛筆などの書き込みが幾ページにもわたっていた。「家屋倒壊」「三人生き埋め」「ガス臭あり」

 東灘署に駆け込むなどした人たちが届け出た被災情報だった。地震当日、当直明けだった大垣博資警部(40)が、部下に記録を命じた。

 救助要請は四百七十六件で、署から一キロ圏内の人が59%だった。

 三キロ以上離れた所からは15%。多くは、倒壊率が五割を超すような地域だった。すがる思いで署への道のりを急いだ人たちがいた。

 単純な支援要請とは違い、切迫した「生死を分ける情報が多かった」。

 しかし、すべてに対応することは不可能だった。警察発表のデータと照合した推計では、救助要請の30%に当たる百四十三件で、百七十一人が亡くなっていた。

 管内の直接死は約千三百人。地図上の書き込みは、その一部だった。

 地震の約一時間半後、神戸市消防局の管制室から二人が飛び出し、市役所一号館二十四階へ駆け上った。市内五カ所に設置した火災監視カメラが故障したためだった。「灘方面五カ所、中央区一カ所、長田方面は無数の黒煙確認」。全体状況の“第一報”だった。

 ヘリコプターからの情報は、さらに二時間が過ぎた後だった。「市内全域にわたるも、東部で広範囲」。家屋の倒壊状況が知らされた。

 兵庫県庁では、各自治体などと結ぶ非常時の情報網「兵庫衛星通信ネットワークシステム」が、自家発電装置の冷却機能が故障してダウン。独自に情報収集する手段を失っていた。

 昼ごろ、総務部長が兵庫県警本部に電話しようとした。「連絡がつきません」。その報告に、貝原俊民知事(当時)が烈火のごとく怒った。「目の前だろ。走って行け」

 被害の全容は見えず、いら立ちが募るばかりだった。

 神戸市防災安全公社の後藤陽事務局次長(53)はあの日、市消防局管制室での当直責任者だった。「最も被害の大きいところ、まったく被害がないところは、いずれも情報が入ってこなかった」

 一一〇番や一一九番は間断なく鳴り続けた。ただ、エリア的な「空白」があった。

 通信手段が途絶えるなどし、深刻な被災現場からの通報は遅れる。被害がなければ通報はない。両極の二つの地域が、同じ状態に置かれたという。

 通報を待たず、積極的な「攻め」による事態把握へ。情報収集態勢の強化を、誰もが痛感した。

 県警は震災後、所有するヘリコプターを一機増やし、車が通れない場所でも走れるオフロードバイク十三台も配備した。

 阪神・淡路で、県警が救出した生存者は三千四百九十五人。消防千三百八十七人(大阪府内を含む)、自衛隊百六十五人。

 この数を積み増すため、今、後藤事務局次長は「点の情報を面に変え、いかに人を送り込むか」がカギだと語る。

2004/7/23
 

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