金属と油の混じったにおいが充満する。
神戸市兵庫区の兵庫運河沿い。「神戸ものづくり復興工場」で、自動車部品などの金型を製造する藤森功一さん(45)が、金属の切削装置を操作した。事業は一時、軌道に乗った。震災前、神戸市長田区でケミカルシューズの金型製造を営んでいたころと同水準まで売り上げを伸ばした。しかし、昨年秋の世界同時不況で、仕事は急減した。
売り上げは震災前の半分程度。「この15年では、今が一番厳しい」。70平方メートルほどの室内で藤森さんはため息をついた。
藤森さんが働く復興工場は、神戸市が103億円を投じて建設した。鉄筋コンクリート5階のビル4棟を備えた全国最大の公営賃貸工場だ。被災事業者向けに1998年、入居が始まり、当初は「復興支援工場」と呼ばれた。利用期限は5年とされた。
震災直後、地元とのつながりが深く神戸を離れることのできない中小零細業者のために、市は市内6カ所に使用期限5年の仮設工場を建てた。しかし、期限内に再建を果たした業者は多くなかった。復興工場は救済の延長策だった。
藤森さんも、震災で父親と2人で営んでいた工場が全壊。神戸市西区の仮設工場を抽選で引き当て、数カ月後、生産を再開した。しかし、生産中断のわずかな間に環境は一変していた。市場には安価な中国製のケミカルシューズが出回り、金型の注文がほとんどなくなった。そこで、藤森さんは知人や市の支援を頼りに、自動車部品メーカー向け製品などをコツコツと開拓した。
軌道に乗り始めたころ、仮設工場の入居期限を迎えた。復興工場の賃貸料は仮設の4倍したが、民間よりは安く、2000年に入居を決めた。
神戸市産業振興局によると、これまでに復興工場に入った業者は218社ある。このうち、54社が売り上げを伸ばして「自立」した。一方、波に乗れず廃業に追い込まれたり自己破産したりした業者は45社ある。
震災から時がたつに連れて被災企業の入居率は低下した。市は04年1月、一般の企業にも復興工場の門戸を開いた。さらに本年度、2回の延長で最長15年と定められてきた利用期限を撤廃。震災15年目にして、復興工場は被災業者救済の場から、地域経済の生産拠点に役割を変えた。
藤森さんも腹をくくっている。復興工場内で情報交換できるメリット、充実した設備、移転した場合の騒音問題、不動産を持つリスク-。「いろいろ考えるとここで生きるしかない」
この工場で夢もできた。
07年、東大阪市の中小業者が人工衛星「まいど1号」を開発したのに触発され、入居企業約10社と異業種交流会を結成した。今は不況の影響で活動は停滞しているが「世間を驚かせるような製品を、仲間と造りたい」と思う。実現したときが藤森さんの「復興」かもしれない。(記事・三宅晃貴、写真・笠原次郎)
2009/10/4