碁盤状に美しく整備された街に真新しい住宅、マンション、店舗などが混在する。震災復興土地区画整理が最終盤を迎えた神戸市長田区のJR新長田駅北地区。空き地も目立ち、金網に囲まれた一角には、高さ50センチほどの地蔵が3体。コーン標識と漁業用の浮き球でできていた。
「金網が無機質で、さびしいと思って…。小学生が喜んでくれてる」
隣でケミカルシューズ関連工場を営む田中幸夫さん(61)がほほ笑んだ。
周辺はかつて、「1軒に1人は靴工場で働く人がいる」という職住混合地域だった。しかし、阪神・淡路大震災で焼け野原になり、人々は仮設工場へ、仮設住宅へと散った。工場が全壊したものの3年後に帰ってくることができた田中さんは、近所の友人との再会を楽しみにしていた。
が、区画整理が進み街がきれいになっても、顔なじみは戻らない。同業者の工場も半分以上が消え、代わりにマンションが建った。
同地区の区画整理は、公共施行の18地区の中で最大の約60ヘクタールを整備。市は総事業費約1034億円を投じ、施行期間は2011年3月までとする。
その大きな目的の一つは、地場産業のケミカルシューズ業界の再生。靴工場を再集積して、街のにぎわいを取り戻すことだった。さらに市などは2000年、15億円を投じ、地区内にメーカーが靴を直接販売するアンテナショップ「シューズプラザ」も整備した。
しかし、海外製品との競争激化に震災が拍車をかけ、区画整理を推進した市の目算は狂った。
震災前から、価格の安い中国製品が国内に流入していた。対抗するため、労働力が安い中国で、部品の縫製や組み立てなどをする靴メーカーが出ていた。震災後、その動きは加速し、長田の靴産業は一気に衰退した。日本ケミカルシューズ工業組合によると、震災前の1994年、加入業者は225社あった。しかし、震災直後、214社となり、約15年を経た現在、103社に減った。
田中さんの取引先も震災後2、3年の約20社から今は約10社へ。売り上げも震災前の約4分の1という。
靴産業の衰退は、地域社会にも大きな影響を及ぼした。商店、喫茶店、飲食店はかつて労働者でにぎわい活気があった。今は、商業も飲食業も落ち込み、商店街の衰退をもたらした。新しい住民が増えたためか、街から話し声が消えたように田中さんは思う。「ふれあいがなくなった」
工場を再建したころ、田中さんも区画整理の説明会に何度も出席したが、発言はしなかった。「きれいやけど、こんなに会話がなくてさびしい街になると分かっていたら、もっと意見していた」と悔やむ。
工場隣の空き地に作った地蔵には、ふれあいを取り戻したいとの願いも込めた。だから、立ち止まる親子連れに声をかける。「誰とでも話ができる街にしたい」。地蔵をじっと見詰めた。(記事・阿部江利)
2009/10/3