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子どもたちがサンドバッグに心情をぶつけられる「火山の部屋」。東北にも採用された=神戸市東灘区本庄町1、神戸レインボーハウス(撮影・中西幸大)
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子どもたちがサンドバッグに心情をぶつけられる「火山の部屋」。東北にも採用された=神戸市東灘区本庄町1、神戸レインボーハウス(撮影・中西幸大)

子どもたちがサンドバッグに心情をぶつけられる「火山の部屋」。東北にも採用された=神戸市東灘区本庄町1、神戸レインボーハウス(撮影・中西幸大)

子どもたちがサンドバッグに心情をぶつけられる「火山の部屋」。東北にも採用された=神戸市東灘区本庄町1、神戸レインボーハウス(撮影・中西幸大)

 「震災直後は、心のケアの『こ』の字も頭になかった」

 阪神・淡路大震災で親を亡くした子のケアに取り組んできた民間団体「あしなが育英会」(本部・東京)の神戸事務所長、伊藤道男(56)は19年前をそう振り返る。

 東京から神戸入りしたのは約2週間後。奨学金を必要とする震災遺児を探すことが大きな目的だった。同会は独自調査で573人の遺児を確認。子どもたちと接するうち、職員は精神的ケアの必要性を認識し始める。

 米国の施設を参考に、遺児の心のケア拠点「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)を開設したのは震災の4年後。子どもが遊びや語り合いを通して思いを吐き出す。日本初の試みだった。

     ■

 19年前、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を知らない医師も珍しくなかった。

 当時、日本児童青年精神医学会の理事長だった児童精神科医の清水將之(まさゆき)(80)=東灘区=は「1995年はボランティアだけでなく、心のケアも『元年』だった」と話す。

 自身、震災で両親を失いながら、神戸市の児童相談所で医師による相談体制をつくった。子どもに重い精神的症状が出ることを危惧していた。

 だが、被災地で求められたのは医学的治療より「ケア」だった。子どもたちが自らの被災体験と折り合いを付けていく過程を見守り、支える。

 2001年から、神戸レインボーハウスの顧問を務める清水は「遺児が成長して結婚し、親になる。そんな長期を見据えたケアの必要性が分かってきた」と語る。

 親も家も日常も奪われた子どもが前を向くことは、簡単ではない。同ハウスの支援対象は今、自死や病気の遺児が中心になったが、成人した震災遺児らにも月に1度の便りを送る。何かの壁に直面したとき、支えとなる存在であり続ける。

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 04年に兵庫県が開設した「県こころのケアセンター」のセンター長加藤寛(55)も、長期的な対応の重要性を実感する。

 「東日本大震災のニュースに接し、封印していた阪神・淡路の記憶がよみがえった人がいる」

 震災で受けた心の傷は、どこで顔を見せるか分からない。事件や事故の被害者もそうだ。センターは、全国初のPTSD治療・研究の専門機関として支え続けてきた。

 東日本の被災地支援にも関わる加藤は今、原発事故に見舞われた福島県の被災者が抱える問題の重さを懸念する。

 「事故の恐怖、差別や偏見。故郷を離れ、生活再建の道筋も見えない。こうした人々への支援は経験のないこと」

 東日本大震災で2千人以上の遺児を確認し、宮城県に2カ所のレインボーハウスを開設、岩手県でも建設を進めるあしなが育英会も、福島県での対応はなお手探りだ。

 何十年という期間を視野に、支援の扉を開いておく必要があることだけは、間違いない。

=敬称略=

(磯辺康子)

2014/5/8
 

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