1995年1月17日。午前5時ごろ、牧井優児=当時(55)=はマイカーで明石市内の自宅を出た。造成現場で重機を動かす「一人親方」。3連休が明け、三重県の単身赴任先に向かうためだ。
暗がりに雪が舞っていた。見送りに出た妻の好子(71)が聞いた。「雪やったら仕事はないんと違うん?」。優児は「行かんと仕事できんやろ」と取り合わなかった。
45分後、激震が襲った。優児の携帯電話にかけたが、応答はない。午前中に阪神高速道路公団(当時)から連絡が入った。「ご主人の車が神戸線の倒壊に巻き込まれた」。現場は、橋脚がなぎ倒された神戸市東灘区深江本町。救出は困難を極め、遺体が搬送されたのは翌日夕方だった。
阪神・淡路大震災で、阪神高速は湾岸線を含む6カ所で橋脚が倒壊・落橋し、16人が亡くなった。4カ月後、公団は遺族らに「予測を超える地震によるもので、工事は基準を満たしており、公団に責任はない」と説明した。
3人の孫の成長を楽しみにしていた優児。思い出したのか、好子は涙ぐんだ。「公団の責任を問いたい思いもあったが、日々を乗り切るのに精いっぱいだった。運が悪かったと思うしかなかった」
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阪神高速芦屋料金所(芦屋市大東町)南側の緑地に慰霊碑がある。96年9月、神戸線の全面復旧を前にできた。
倒壊の「責任」問題がくすぶっていた。「このような地震が発生することがないよう道路の安全を祈念する」。16人の名前と共に刻まれた碑文には「震災は想定外」とする公団の主張が透ける。
97年1月、遺族の萬(よろず)みち子(91)が国家賠償請求訴訟を起こす。息子の英治=当時(51)=はマイクロバスで阪神高速神戸線を走行中、西宮市甲子園高潮町での橋脚倒壊に巻き込まれ、死亡した。
裁判は6年にわたったが、みち子は敗訴する。一審判決は公団の主張を支持した。
「阪神・淡路大震災は設計時の想定をはるかに上回る地震だった。施工の欠陥も管理の不備も認められない」
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みち子は控訴したが、2004年に高齢などを理由に和解する。公団が「震災対策に万全を期していく」ことなどが条項に盛り込まれた。
それから10年。大阪の老人ホームで暮らすみち子の表情は穏やかだった。財布に英治の写真をしのばせる。
「もう阪神高速を憎んではいない。英治は自分の人生を精いっぱい生きたと思っている」
そして、言葉を継いだ。
「でも、阪神高速は忘れないでほしい。『橋脚の強さを倍にしてでも、あんな犠牲を繰り返さないでほしい』と願う遺族がいることを」
道路公団改革で民営化された阪神高速。技術担当者は「全道路橋で震災後の耐震基準に基づく補強を3年前に終えた」と現状を説明した。東日本大震災でも表面化した「想定外」を念頭に、基準に上乗せする取り組みを聞くと、担当者は戸惑いながら答えた。
「国が定めた基準を満たす以上に何ができますか」
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阪神・淡路大震災は、高速道路の“安全神話”を打ち砕いた。あれから20年。日本の高架道路や橋脚は巨大災害から命を守る耐震力を得られたのか。阪神・淡路後の安全基準を検証し、その妥当性を考える。=敬称略=
(森本尚樹)
2014/10/17