北海道南部、日高山脈を背に、太平洋に臨む旧静内(しずない)町(現新ひだか町)。明治初期の「庚午(こうご)事変」(稲田騒動)で淡路島・洲本城代の家臣団が移住した地でも知られる。
1982年3月21日、浦河沖地震(マグニチュード7・1)が、町を襲った。道路や橋の被害は限定的だったが、震源から約30キロ離れた、静内川河口部の静内橋(406メートル)の橋脚8基中6基が損傷。1基は中間部で斜め方向に大亀裂が生じ、鉄筋がむき出しになっていた。
その橋脚は、上部の鉄筋量が減らされていたが、手抜き工事ではない。地震の負荷は橋脚の下部に集中するとされ、上部の鉄筋を減らして工費を節約する60~70年代の一般的な設計だった。
この「主鉄筋段落とし」が、それから13年後の阪神・淡路大震災で、高速道路に甚大な被害をもたらすことになる。
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阪神高速の橋脚倒壊で息子英治=当時(51)=を失った萬(よろず)みち子(91)が阪神高速道路公団を相手取った国家賠償訴訟では、この主鉄筋段落としの補強対策が争点の一つになった。英治が亡くなった現場の倒壊は、段落とし部の亀裂から起こっていた。
原告弁護団は「公団は欠陥が分かっていながら、対策を怠った」と迫った。公団は「震災6年前から順次対策をしていたが間に合わなかった」と主張した。2003年、原告は敗訴する。一審判決の趣旨はこうだ。
「地震の発生頻度を考えると、当時は対策の必要性、緊急性は高くなかった。欠陥が明らかになったからと言って、高速道路の使用を止めるのも現実的でない」
結果的に、欠陥解消への「猶予」は10年余りだった。その間、橋脚の補強対策に関わった建設省(当時)の元技官は「当時は切迫感はなかった。福井地震以来、都市を襲った大地震は48年間もなかったのだから」と述懐する。
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震災前、主鉄筋段落としの補強実績は、阪神高速では5年間で54基にとどまった。震災後、建設省は計5700億円を投じ、3年間で全国2万8千基の補強を進めた。道路橋の耐震基準も大幅に書き換えられ、耐えるべき揺れの強さは一気に倍になった。
「不謹慎だが、河川改良などでは、大水害があった方が対策は進みやすい。予算が付きやすく、住民の理解も得られる。地震対策も全く同じ」
そう指摘する元建設省技官は「基準を改定しようにも、被害が起きていない時点で革新的な対策や知見を盛り込むには労力がいる。まず諸先輩の説得から始めないといけない」と苦笑した。
対策が後手に回る一方で、南海トラフ巨大地震の発生が懸念される。最悪の場合、震源に近い地域での揺れは、道路橋の耐震基準をはるかに上回る。その備えが国家的命題となっている今、対策に抜かりはないのか。
兵庫県内の道路橋の現状を取材した。
=敬称略=
(森本尚樹)
2014/10/24