中学1年のとき、阪神・淡路大震災で姉を亡くした。今、福島県いわき市で臨床心理士として働く。
芦屋市で被災した植松秋(みのり)(33)は、東日本大震災翌年の2012年、いわき明星(めいせい)大学心理相談センターのカウンセラーになった。
いわき市では津波や関連死で458人が亡くなった。東京電力福島第1原発事故で、県内の他市町村から避難してきた住民が2万4千人を超え、震災の影響は今も色濃い。
「助けを必要とする人がいるとき、私は選択肢の一つになりたい。心のケアは、命を守ること」。その思いの原点は自身の経験にある。
■
1995年1月17日。両親、姉、弟と暮らしていた芦屋市の一軒家で地震に襲われた。中学3年の姉素(もと)=当時(15)=の隣で寝ていた秋は、とっさに布団をかぶった。家族全員が生き埋めになり、秋は壁を蹴破って外に出たが、素は助からなかった。
家族の間で、震災や素の話題が出ることはなかった。秋は両親を気遣い「自分はちゃんとしないといけない」と考えていた。「震災を思い出すのが怖かった。悲しんでいいかどうかも分からなかった」。それでも、中学、高校時代は元気に過ごした。
異変が現れたのは、徳島大(徳島市)で心理学を学んでいた3年生のころだ。慣れない1人暮らしのストレスがたまっていた上、震度3程度の地震が何度かあった。
「心の中に押し込めてきたものが限界に達し、ダムが決壊したようだった」
小さい揺れで恐怖を感じ、隣の人の貧乏揺すりですら「地震が来る」とおびえた。遠くのサイレンの音にも過敏になった。震災の映像が鮮明によみがえり、過呼吸で倒れることもあった。
「お姉ちゃんが死んだのは私のせいだ。なぜ自分だけ布団をかぶったのか。寝る位置が逆だったらよかったのに」。そんな罪悪感を強く抱くようになった。
■
震災から10年が過ぎた2005年、徳島大病院で心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断され、兵庫県こころのケアセンター(神戸市中央区)の受診を勧められた。
センターは、全国初のPTSD研究・治療機関として04年に開設された。秋はそこで、当時新たに導入された治療法「長時間曝露(ばくろ)法」に取り組んだ。
震災の記憶を繰り返し語り、録音して聞く。避けていた過去に心を慣らしていく。消防署の前でサイレンを聞く練習もした。約2年を経てPTSDの症状は収まっていった。「私は私で生きてていい」。そう思えるようになった。
08年春、兵庫教育大大学院(加東市)に進み、臨床心理学を専攻した。その後、働きながら資格取得を目指していたとき、東日本大震災が起きた。「役に立ちたい」。東北での仕事を必死に探した。
兵庫から遠く離れた被災地で今、住民の心理相談に応じる秋は言う。
「人は自分だけでは生きていけない。心は誤作動を起こすもの。だから、私はしんどさを抱える人の身近にいたい」
姉を失って20年。自身の心と向き合い、ここにたどり着いた。
□
阪神・淡路大震災後、被災者の心はどのような軌跡をたどったのか。震災を機に広まった「心のケア」は成熟したのか。20年の歩みを追った。=敬称略=
(中島摩子)
2014/12/18