「無力だな、と思う」
東日本大震災で自宅を津波に流された60代の男性が、当時の様子を思い出し、つぶやいた。
2011年6月、宮城県気仙沼市。兵庫教育大教授の臨床心理士、市井雅哉(50)は男性の希望でカウンセリングをした。男性は津波の記憶が頭を離れず、睡眠導入剤を服用していた。典型的な心的外傷後ストレス障害(PTSD)だった。
市井は2本の指を左右に振り、男性に目で追うよう促しながら、津波にまつわる記憶を尋ねる。EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)と呼ばれる治療法だ。
無力感にとらわれる男性とのやりとりの中で、市井は肯定的な記憶を引き出していく。
男性「逃げた判断は、間違ってなかった。家内にも『逃げろ』って」
市井「行動は的確だったと思う」
男性「確かに。本当に逃げようと思ったのは初めてだから」
1時間余りのカウンセリングの終盤、男性は「頭がずっと軽くなった」と言った。
今夏、市井との間を取り持ったNPO関係者が再会すると、男性は笑顔を見せた。「周囲から『元気を取り戻したね』と言われます」
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1989年に米国で開発されたEMDRは、トラウマ(心的外傷)の前後の肯定的な記憶を呼び覚まし、一連の経験を再構成する。
眼球運動と心の関係は未解明だが、「効果は疑いがない」と市井。阪神・淡路大震災直後の神戸で治療効果を実感し、03年に発足した「日本EMDR学会」の理事長として普及に努める。
「他にトラウマを抱えていないなら、3回の治療で77~90%が治癒という臨床データがある」
阪神・淡路以降の治療は、トラウマとなった出来事を想像や行動で繰り返し追体験する「長時間曝露(ばくろ)法」が主流だ。ただ、その手法は体験を繰り返し思い起こすため、患者の負担が重い。
EMDRは新たな選択肢を示したといえるが、兵庫教育大教授で精神科医の岩井圭司(53)は「現実には、患者に選択肢はない」と指摘する。
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EMDRを学んだ国内の医師や心理専門職は2千人を超える。実践者は増えたが、治療機関は各地にあるわけではない。長時間曝露法をする機関も都市部に集中する。
岩井は、トラウマに直接向き合うことなく、対人関係能力を高めることで症状の改善を図るなど、患者の負担が少ない手法を提案する。「重要なのは治療法の臨床成績より患者と治療法の相性。だが、ほとんどの人は選べる環境にない」
なぜ、治療が普及しないのか。岩井は「経済的な問題」を指摘する。いずれの治療も、時間がかかる割に診療報酬が低く、医療側は敬遠しがち。患者側も、継続して治療を受ければ相当の費用がかかる。
「PTSDに対する精神科医の理解も十分とはいえない」と岩井。「診断にすらたどり着けない人々がいる。精神医療の底上げも必要だ」
=敬称略=
(森本尚樹)
2014/12/22