右手の震えが止まらない。左手で必死に押さえ込む。その症状は、1日に何回も起きた。
「右手はずっと、憎い手だった」。西宮市の富田めぐみ(35)は言う。
阪神・淡路大震災は中学3年のとき。大好きな祖母=当時(72)=と神戸市東灘区のアパートで暮らしていた。大きな揺れの直後、祖母は寝ていためぐみに覆いかぶさった。めぐみも右手を伸ばし、祖母の後頭部を抱えるようにした。そこに天井が落ちてきた。
苦しむ祖母に、めぐみは「隙間をつくって、ちょっとでも楽にしてあげたい」と考えた。右手を引き抜いた瞬間、上からの圧力がドンとかかった。
「私が殺した」。家族を心配させまいと、生き埋めになっていた約4時間のことは一切話さなかった。そして、右手が震えるようになった。
祖母のうなり声が耳元によみがえった。高校時代には過食や拒食もあった。気持ちが爆発しそうになると部屋にこもり、ノートやチラシの裏に思いを書き続けた。
転機は、震災から約10年後の結婚と、3人の子どもの誕生だった。「おばあちゃんが守ってくれたから、命がつながった」。そう思えるようになり、右手の震えは次第に消えていった。
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心に傷を受けた子どもはどれぐらいいたのか。
兵庫県教育委員会は1996年度から小中学校で「心の健康について配慮が必要な児童生徒数」を集計した。14年間でのピークは98年度の4106人。落ち着きのなさ、頭痛や腹痛などの影響がみられた。
そこで、国の特例措置として被災地の小中学校に配置されたのが、教育復興担当教員(心のケア担当教員)だった。乳児期に被災した子どもが中学を卒業する2009年度まで、延べ1671人がその役割を担った。
07年度から3年間、神戸市西区の井吹台中で担当教員だった柚木(ゆのき)晃(62)は、ある母親の訴えを覚えている。
「震災で店がつぶれ、再建もうまくいかず、人生が変わってしまった。子どもに負担をかけているのがつらい」
年月がたつにつれ、震災の直接的影響は見えにくくなったが、経済状況や家族関係の変化が子どもに影響を与えていると感じた。柚木が心掛けたのは「とにかくその子の言うことをちゃんと聞く。放っておかない」ということだった。
児童精神科医の清水將之(80)=神戸市東灘区=は、担当教員の取り組みを評価する。
「自分を見てくれていて、いざとなったら助けてもらえる。その安心感が、子どもにとって一歩を踏み出す力になる」
県教委は00年、震災・学校支援チーム「EARTH(アース)」を創設した。毎年、約150人の教職員がメンバーとなり、国内外の被災地などで心のケアや防災教育の経験を伝える。
東日本大震災の被災地でも、研修会や教員への助言を続ける。兵庫の20年の積み重ねが、新たな被災地で子どものために生かされている。
=敬称略=
(中島摩子)
2014/12/25