「補償制度の創設は困難な問題がある」
阪神・淡路大震災の発生から8日たった1995年1月25日。当時の首相、村山富市が参院本会議でそう述べた。被災者個人の家屋や家財への補償について初の言及であり、以降、見解は揺らがない。
それは、国や自治体が被災者に貸し付ける災害援護資金の申し込みが膨れ上がった要因になった。世帯当たりの義援金は少なく、ほかの支援策もないまま、多くの被災者は借金に頼った。
被災地は黙っていなかった。作家の小田実(故人)や市民グループが市民立法運動を展開。最高500万円の支給を定めた法案を国会に提出した。
98年4月。議論がヤマ場を迎えた。神戸市中央区の渡辺豊(70)=仮名=も国会前に座り込んだ。
「人間の国へ」。黄色い横断幕が頭上で揺れていた。
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市民運動とは無縁だった渡辺。同市灘区のアパートは全壊し、妻と娘の3人で避難所に身を寄せた。前年に体調を崩して入院していたが、1月18日には仕事に復帰する予定だった。
避難所で1週間たったころ、隣で寝ていた高齢の女性が風邪をこじらせて亡くなった。
「このままではみんな死んでしまう」
渡辺は避難所運営にかかわり始めた。救援物資の配り方を見直し、お年寄りの居場所を確保した。
妻には障害があった。神戸市に相談すると、妻を世帯主にすれば障害者用の仮設住宅に入れることが分かった。世帯分離し、1人で避難所に残った。当座の生活資金に、災害援護資金350万円を借りた。
避難所には市民団体が訪れ、公的支援を求める運動に誘われた。
「市民から税金をとっている行政が、困った市民を支えないのはおかしい」
そんな思いが渡辺を突き動かし、署名集めに走り回った。
運動のうねりは大きく、被災者に現金を支給する「被災者生活再建支援法」が成立。阪神・淡路の被災地でも「被災者自立支援金」が支給された。
渡辺も自立支援金75万円を受け取った。すべて借金返済に消えた。
支援法は99年、広島市で初適用された。当時支給額は最高100万円。それから15年たった今年8月の広島市の土砂災害では最高300万円が支給される。
「公的支援が広がり、運動したかいがあった」と渡辺。「ただ、われわれには間に合わなかった」
=敬称略=
(高田康夫)
2014/12/28