昨年、1本の動画がインターネットに投稿された。
「早(は)よ逃げよ。死んだら終わりで」「死ぬわけねえが」「そう言って何人死んどん、今日」「崩れるわけねえ。水が来るだけだ」
主人公は、避難を拒む男性(59)。動画を撮影し、投稿した自営業の丸畑裕介さん(36)の父親だ。昨年7月、西日本豪雨に見舞われた岡山県倉敷市真備(まび)町で、自宅周辺が浸水し始めているのに、頑として家にとどまろうとしていた。
「少しずつ変化する危険に、人間は鈍感」。防災心理学を研究する元吉忠寛・関西大学社会安全学部教授は指摘する。その原因には「正常性バイアス」があるという。自分に都合の悪い情報を過小評価したり、無視したりする人間の特性のことで、災害時には避難を阻む大きな障壁となる。
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自治体が出す避難情報の中で最も軽い「避難準備情報」。それすら出ていない段階で、地区住民の多くが自主避難した例がある。
台風21号が兵庫県に最接近した昨年9月4日。朝来市南西部にある神子畑(みこばた)地区の区長山内隆次郎さん(74)に迷いはなかった。
「川の水が濁っている。地滑りがあったかも」
ケーブル放送や電話で住民に避難を呼び掛け、希望者は軽トラックで自ら迎えに行くと伝えた。高齢者ら11人が約6時間、避難所に身を寄せた。数日たって、上流で山崩れが発生していたことが分かった。
「地区ぐるみ避難」は、2018年の1年で計5回を数えた。うち2回は今回のような自主避難。背景には、死者・行方不明者が22人に上った09年の県西・北部豪雨がある。「あの日の恐怖はみんな覚えている」と山内さん。土石流が屋内に流れ込み、国道が陥没。濁流にのまれ、奇跡的に救出された女性もいた。
かつて鉱山施設で繁栄した神子畑だが、住民は17世帯28人まで減少し、22人が65歳以上。民家は川沿いに点在し、裏手には急な山肌が迫る。1人暮らしの仙賀一恵さん(83)は、数日分の食料や衣服などを詰めたリュックサックを常備する。「早めに避難したいので(声掛けは)ありがたい。家にいると不安が尽きないが、みんなで逃げれば少しは気が紛れる」
元吉教授は、訓練などを通じて、避難を「習慣化」しておくことの必要性を訴える。「災害時に『危ないかどうか』で行動を決めてはいけない」と警告する。
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避難を拒んだ父親に話を戻す。自宅は最終的に1階が完全に水没。岡山県によると、倉敷市では5千棟以上の家屋が全半壊した。
「信じたくないのか、現実から目を背ける父を説得するのは大変だった」
腰まで水に漬かりながら、ようやく避難した父親は現在、みなし仮設で暮らす。「罰則でもない限り、避難勧告や避難指示で人は動かない」。これが丸畑さんの実感だ。(黒川裕生、竹本拓也)
2019/1/14