■夫、自ら致死薬/「安楽死」の国で
「彼は頑固な人。自分が決めたことは必ずやる、という性格でした」
窓際の椅子に腰掛け、ネル・ムラーさん(82)が亡き夫ヤンルー・ムラーさんの思い出を語る。愛犬のミニーを膝の上で抱き、朗らかな笑顔で紅茶をすする。
私たちは、オランダ中央部のユトレヒト州アメルスフォールトにいる。昨年12月、クリスマスが近い時期だった。首都アムステルダムから50キロほど離れた閑静な街に、ネルさんの自宅はある。
夫のヤンルーさんは2011年9月、78歳で逝った。自ら用意した致死薬を飲み、最期を迎えた。2年ほど前から体調に変化が表れていた。
カナダ・バンクーバーでバカンスを過ごしていた時のこと。ネルさんの誕生日と結婚記念日のお祝いを兼ねていたが、ヤンルーさんはその両方を忘れていた。
「体調も悪そうでしたし、普段は約束を必ず守るような人なので『これはおかしい』と思って。血圧もいつもより高くなっていました」。ネルさんが振り返る。
オランダへ戻り、診察を受けると脳出血を起こしていた。認知症の症状もあったそうだ。「いろいろな薬を試しましたが、効果はありませんでした。改善に向けた道は見当たりませんでした」
◇ ◇
ヤンルーさんの話を続ける前に、少しオランダの医療制度に触れたい。
病気にかかったり、けがをしたりすると、家庭医と呼ばれる地域の診療所の医師に診てもらうことになる。高度な治療が必要であれば、そこから専門的な病院につなげられる仕組みだ。
安楽死も家庭医の関わりが深い。希望する場合、まず普段から接している家庭医に伝える。耐えがたい心身の苦痛など一定の条件を満たしていれば、法的に実施が認められる。ヤンルーさんも家庭医に安楽死の相談をした。
「でも、医師に『やりたくない』と断られたのです」。家庭医には、安楽死の実施を断る自由が認められている。
ネルさんの言葉が熱を帯びる。「それで、薬を飲んで死ぬことを決心しました。亡くなる4カ月ぐらい前でした」
ヤンルーさんはインターネットで、動物の安楽死に使われる薬を購入する。苦しまずに短時間で死に至る、と聞いたそうだ。夫婦で話し合い、薬を9月に服用することを決める。
「計画的に死ぬ。それに向けて、私たちは互いに思いを語り尽くしたし、準備をやり尽くした。だから死ぬことに寂しさも怖さもなかったの」。ネルさんが言った。
最後の日がやって来る。自宅に息子2人とそれぞれの妻が集まり、一緒に食事をする。息子たちはリビングに残り、ネルさんはヤンルーさんと一緒に寝室へ移る。
薬は2人分あった。「彼は『確実に死にたい』と言って、それを全て飲みました」。ヤンルーさんの息が止まる。「私はそのまま一晩、隣で過ごしました」
翌日、家庭医が警察に連絡した。安楽死を認めるオランダでも、自殺行為を手助けすることは禁じられている。ヤンルーさんの死に家族がどれだけ関わったのか、調べる必要があった。家庭医が事情を説明し、ネルさんが罪に問われることはなかった。
◇ ◇
ヤンルーさんは、信頼する家庭医に安楽死を断られた後も死を求め続けた。
「夫は自分で物事を決めるタイプでしたから」。ネルさんはそうつぶやき、続けた。「彼の心身は、彼にとって生きたいと思える状態ではなかったのです」
ネルさんもヤンルーさんと同じように、自分で人生の幕を下ろしたいと思っている。
2020/5/1