太平洋戦争中、海軍に「白菊」という偵察用練習機があった。最高速度はゼロ戦の半分以下の時速230キロで、飛行機としてはかなり遅く、訓練用の機体のため車輪を格納できない。戦争末期の1945(昭和20)年、この白菊の両翼に500キロの爆弾を取り付け、沖縄周辺に展開する米軍艦隊に突っ込んでいった若者たちがいた。「神風特別攻撃隊徳島白菊隊」。1カ月間で56人の隊員が命を落とした。シリーズ「戦争と人間」第2部は、この徳島白菊隊の元隊員、宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=の語りを届けたい。
(小川 晶)
45年夏、宮﨑さんは現在の徳島県阿波市にあった徳島海軍航空隊市場(いちば)飛行場にいた。母のサカヱさんが和服姿で訪ねてきたのは、8月12日ごろだったと記憶している。宮﨑さんは、5月末の特攻作戦で出撃命令を受けたものの、直前になって出撃が中止となり、いったん徳島に戻っていた。そのことを母は、どこからか聞きつけていた。
「突然訪ねてきたから、こっちがびっくりして。飛行場の近くの民家で会いました。しんみりするのも嫌やから、同僚を連れてって30分くらい話しよった。出撃のこととか、そういう角張った話はしませんでしたわ。よもやま話ですよ。田舎の料理を持ってきてくれよったから、それを食べながらです」
「お母さんは、あんまり暗い感じは見せなんだな。ただ、またいつ特攻に行くかも分からんし、『これが見納めやな』という感じはありましたね。わしも『これが最後かも分からん』と思ってたし。実際、戦争が続いとったら、行っとったかも分からんしな。別れ際に『体に気い付けよ』って言われましたな」
宮﨑さんはそのまま、市場飛行場で8月15日の終戦を迎えた。それから、書類の焼却や飛行機の移送といった残務処理に取り掛かる。香川県法勲寺(ほうくんじ)村(現・丸亀市)の実家に戻ったのは、8月末のことだった。
「市場から白菊に乗って、観音寺の基地に着いたのが午後3時ごろ。普通やったら、そこから2時間ちょっとあれば実家に帰れるんやけど、白菊の翼の下で寝て時間をつぶしました。『こんな明るいうちに敗残兵が帰るわけにいかん。日が暮れるまで待っとこう』。そういうことやな」
「夜遅うに家に着いて、裏口に回ったら、鍵がかかってない。ガラガラと開けたら、そこにお母さんがおった。分かっとったんですな。わしが夜に帰ってくることも、裏口から入ることも」
「一緒に待っとった2番目の兄貴に『亘はな、昼間に表から帰ってくるような男ちゃう。戦争に負けて情けないと思うて帰ってくるはずやから、裏口の戸を開けとけ』って言うとったらしい。お母さんはわしの顔見て、『おかえり、ご苦労さん』って声を掛けてくれました」
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