1945(昭和20)年春、徳島に転属した宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=は、偵察用練習機「白菊」の操縦訓練を続けていた。そして、搭乗員に集合命令がかかる。
「操縦員も偵察員も、全員が兵舎の前の練兵場に集まりました。分隊ごとにずらっと並んでね。『何か、重大発表があるぞ』ということは、みんな言いよりました。緊張しとったら、隊で一番偉い司令から戦況の説明があって、『本日から、わが隊を神風特別攻撃隊徳島白菊隊と命名する』と告げられた。『全隊を挙げて』みたいな言葉もあったから『ああ、自分もか』と分かったな」
「『志願する者は一歩前へ』とか、『不服の者は一歩下がれ』とか、意思確認をする隊もあったみたいやけど、わしらは全くなし。特攻を厳として命じられて、それを了承したということ。反対したもんはおらんかった。『うち、跡継ぎがおらんからやめですわ』とか、そんなこと言える雰囲気やないし、シーンとしてましたね」
「わし自身も『ついに来たな』と身が引き締まる感じがしましたよ。『いよいよ、我々も行かないかん』と。当時はそういう教育をされとるからね、ゲートル巻いて中学に通って、配属将校から行軍とか射撃を教わって、『お国のために死ぬんだ』ってすり込まれて。それが当たり前ですわ。戦争で一番大事なときに、死ぬのが怖くて逃げるいうようなことは、絶対できませんわな」
45年3月、沖縄戦が始まり、日本は特攻作戦を拡大させていく。海軍は「菊水作戦」と名付け、航空隊ごとに神風特別攻撃隊を編成していった。
「徳島には偵察員はおるけど、操縦員がおらん。だから、方々から集められたんですね。どこの隊でも特攻、特攻やったから、奮い立つような気持ちやったけど、練習機の白菊で行くとは思ってなかった」
「風が吹いたら傾くような飛行機ですよ、白菊は。速力も出ないから、沖縄までトコトコ、4~5時間くらいかかる。おまけに250キロ爆弾を二つも付けるんやからね。一応検査とかして、可能だと判断したようですけど、沖縄までたどり着くだけでも至難の業ですわな」
「それでも命令やからね。『特攻に行くにしても、実戦用の飛行機やないと意味がない』って思いもあったけど、しょんぼりするのも恥やし、『任務を完全に果たそう』と心を改めました」
(小川 晶)
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