太平洋戦争中、姫路海軍航空隊の飛行場があった加西の鶉野(うずらの)飛行場には、今も防空壕(ごう)や滑走路のほか、機銃が備え付けられた対空機銃座が残る。ここで宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=たち飛行術練習生は連日、艦上攻撃機の操縦訓練を繰り返した。
「わしらがおった1944(昭和19)年は、鶉野では空襲がなかった。平和でのどかなとこでした。訓練を終えたら前線配置になるから、『どこの所属になるんやろか』ぐらいしか考えてへんかったな。実際には、戦局がどんどん悪化しとったんですけどね」
「当時1回だけ、米軍機が通ったことがある。『勝った勝ったいうとんのに、敵の飛行機がここまで来るんやなあ』『日本、どないなるんやろうなあ』って、ちょっと不思議な感覚がありました。不安には思ったけど、負け犬のような気持ちになってしまうわけではなかった。『我々がしっかりせないかん』というような感じやったな」
日本は次第に敗戦を重ね、連合国との物量、人員の差が顕著になっていく。44年10月、海軍はフィリピン・レイテ沖海戦で「神風特別攻撃隊」を編成、出撃させた。爆弾を抱えた飛行機で、搭乗員ごと敵の艦船に突っ込む。組織的な特攻作戦の最初とされている。
「44年の11月ごろやったと思うんやけど、上官から訓示を受けた記憶があります。『わが身を捨てて行った』というような説明を受けたな。ただ『いずれおまえらも』という感じではなかった。わしも『今の我々には関係ない』と思うてましたな」
「この年の秋には、士官候補の予備生徒が40人くらい鶉野に来たんやけど、その3分の1ぐらいが翌年の沖縄戦の特攻で死にました。姫路海軍航空隊で編成した『神風特別攻撃隊白鷺(はくろ)隊』としてね。白鷺隊には、わしが慕っとった上官もおりました。たたき上げのまじめな大尉で、尺八を聞かせてくれたこともあった。明治生まれで、奥さんと子どもが2人おられました。こういう古い人まで行くんやから、よっぽどやったんやろうね」
宮﨑さんは、44年12月末、飛行術練習生の教程を終え、佐伯(大分県)に配属された。ちょうどこのころ、鶉野飛行場の滑走路西側にあった川西航空機(現・新明和工業)の鶉野工場が本格的に稼働を始めている。海軍の新型戦闘機「紫電改(しでんかい)」などの組み立てを担った。
「わしの一番上の兄貴がやはり飛行機乗りで、乗っとったんが『紫電改』やった。その飛行機が鶉野で造られとったんやなあ」
(小川 晶)
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