宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=の長兄、勇さん=2012年4月、92歳で死去=は、戦闘機の操縦員の体験を自ら進んで話すことはなかった。
「1978年に宇和島沖(愛媛県)の海底で海軍の戦闘機『紫電改(しでんかい)』が見つかった。かつて兄貴が乗っとった縁で、テレビとかの取材を受けるようになり、それから戦闘の経験を少しずつしゃべるようになりました。勧められて本も出したけど、空中戦で何機落としたとか、自慢めいたことは書かれてないし、やっぱり積極的には話さなんだ。『もう、戦争の話はやめておこう』ということやわな」
「仲間がようけ死んどるからやと思います。何回も隊がつぶれて、編成し直して増強しても、来たもんが次々死んでいったからな。戦争がいかに怖いもんかちゅうことを身にしみて知っとる。わしは兄弟やし、操縦員として同僚やから『兄貴、ラバウルではどうやったんや』とか尋ねたら、『あんときはなあ』って感じで話してくれた。でも、わしの特攻の体験を詳しく聞いてきたことはなかった」
「死なずに今、生きていることがすべてやったんやろうな、兄貴にとっては。せやから、自分のことも進んでしゃべらへんかったし、わしの体験も聞いてけえへんかったんやと思います。戦闘機だろうが特攻だろうが、当時は『操縦員だったらいつかは逝く』ちゅう感じでした」
43(昭和18)年4月、宮﨑さんも「いつかは戦争に行かなあかん」との思いで、旧制尽誠中学を卒業し飛行予科練習生となる。44年12月、加西の鶉野(うずらの)飛行場で飛行術練習生の教程を終え、大分・佐伯に配属された。船団の護衛などの任務に就いたが、わずか3カ月後の45年3月末、現在の徳島阿波おどり空港(徳島県松茂町)一帯に拠点があった徳島海軍航空隊への転属を命じられた。20歳のときだった。
「徳島ちゅうのは、偵察員を訓練する部隊やったから、『えらいとこ行かされるなあ』『何をさせられるんやろ』と思ったよ。方々から来るんですわ、操縦員ばかりが。わしのような艦上攻撃機だけやなくて戦闘機、艦上爆撃機、水上機、大型機と、いろんな所属からばらばらに」
「もともといた偵察員の分隊のほかに、集められた操縦員だけで一つ、分隊ができました。それまでおったもんと合わせ、200人ぐらいの規模になったんちゃうかな。そこで言われたんが、『白菊で飛行作業を練習する』ということだけ。まだ特攻に行かされるとかは思わんかったけど、さすがに『おかしいな』とは思ったわな」(小川 晶)
2013/8/18【動画】元特攻隊 宮﨑亘さんインタビュー(2)2013/8/29
【動画】元特攻隊 宮﨑亘さんインタビュー(1)2013/8/18
【写真特集】白菊の空2013/8/26
(15)特攻はやっぱり邪道です2013/8/27
(14)敗戦翌日、特攻隊員の死2013/8/26
(13)何のために死んだんか2013/8/25
(12)操縦席、「いよいよ最期」2013/8/24
(11)「人生、20歳で終わりか」2013/8/23