神風特別攻撃隊徳島白菊隊に所属し、徳島の飛行場で終戦を迎えた宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区。徳島に配属される前は佐伯(大分県)に、その前は姫路海軍航空隊にいた。1944(昭和19)年のことだ。
「姫路海軍航空隊では、飛行術練習生として、加西の鶉野(うずらの)飛行場におりました。44年の7月20日から12月27日までやったな。鶉野飛行場は、国鉄北条線(現・北条鉄道)の法華口駅から高台の方に入ったところにあったな。周りにため池がたくさんあって、離陸するときも、下に一つ見えてましたな」
「昔のことわざに『秋の夕焼け鎌を研げ』いうのがあります。夕焼けの翌日はお天気だから、稲刈りのために鎌を研いでおけって意味ですが、鶉野は本当に夕焼けのきれいなとこでしたな。滑走路の果てに、赤くふらーっと、たゆたうっていうんかな」
「周辺に赤土なんかが残っててね、立派な滑走路なんてなかったですよ。一応、きつく固めてはありましたけどね」
加西市教育委員会発行の資料などによると、鶉野飛行場は43年の3月に着工し、9月には一部使用が始まったという。約253万平方メートルの敷地に3本の滑走路のほか、格納庫や燃料油庫、気象観測所などが点在していた。「姫路海軍航空隊基地建物概要図」には、その一角に、「H」を二つ並べるような形の兵舎が記されている。
「兵舎は木造の2階建てでしたな。真ん中に通路があって、部屋が両側に並んでました。最初はハンモックをつって寝てたんやけど、秋ぐらいにベッドが入って。ふかふかで『こりゃええなあ』って喜んだけど、すぐに配属が決まり、出ることになってしまった」
「週に1回、日曜日が休みでした。航空隊が、近くの民家を下宿みたいに指定してそこで過ごすんです。『しゃばの空気を吸いなさい』ということやろうね。わしらは『外出』いうてました。わしが指定されたのが、北条町駅前にあった大きな呉服屋さんで。そこのおばちゃんに、料理作ってもらったりしてかわいがってもらいました」
「宿泊はしないんですわ。朝出て、晩までおる。家族が面会に来たらそこで会うとか、友だち同士で集まるとかな。1回、仲間と一緒に演劇か何かを見にいったこともあったな。駅前の芝居小屋でしたね」(小川 晶)
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