丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)は、太平洋戦争開戦の翌年、1942(昭和17)年に徴兵検査を受けた。結果は甲乙丙で始まる5段階のうち最高の「甲種合格」だった。そして海軍で兵役に就くため、新兵の訓練などをしていた広島県の大竹海兵団に入った。43年1月のことだ。
「すでに戦況が逼迫(ひっぱく)してましたから、甲種でなくても乙種も丙種も、とにかく動ける者はみんな軍隊に入っとりました。海兵団での新兵訓練は、昔より短縮されて3カ月になってました。ボートこぎや手旗信号があって、行進やらは陸軍と同じでしてね。私は、遠阪村の青年学校で軍隊の基本を教えてもらってたんで楽でした」
「そこで最後の成績が216人の分隊で3番やったんです。態度も含めてなので、まじめでハキハキしとったんが良かったんでしょうな。そしたら、同じ集落出身の下士官が喜んでくれまして、『実技を身につけた方が楽やから、学校へ行け』と言われましてな。それで砲術学校の試験を受けたら合格することができました」
43年4月、海兵団の訓練を終える。砲術学校入学まで数カ月の待機期間があった。山中さんはその間、豊後水道の警備にあたる大分県の佐伯防備隊の機雷分隊に所属し、泳ぎ方を教えてもらうことになった。
「私は山奥に住んでいたので、泳ぐ場所がなかったんです。小学校の学校帰りに滝つぼで遊んで、犬かきができるくらいでしたな。海での訓練では、泳げん者30人ほどが50メートルほど沖のボートを回ってこいと言われましたけど、できたのは5、6人だけでした。途中で引き返した私らは、整列させられて木の棒で尻を3回ずつたたかれました」
「ところが『もう1回行って来い』と行かされたら、今度はほとんどの者ができたんです。むちゃ泳ぎですけどな。それから何日か練習したら、背泳ぎとかで2時間ほどは浮いとられる自信がつきました。人間、一生懸命になれば何でもできると思いましたです」
「初めての日曜日に外出させてもらったら、4月の中ごろでしたけど麦の穂がもう赤くなってましてな。エンドウマメも大きくなって、のどかな田園風景でした。帰りたいというわけではないけど、古里を思い出して懐かしい気持ちになっとりました」(森 信弘)
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