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日向に乗り、「レイテ沖海戦」を戦った山中喜平治さん=丹波市青垣町遠阪
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日向に乗り、「レイテ沖海戦」を戦った山中喜平治さん=丹波市青垣町遠阪

  • 日向に乗り、「レイテ沖海戦」を戦った山中喜平治さん=丹波市青垣町遠阪

日向に乗り、「レイテ沖海戦」を戦った山中喜平治さん=丹波市青垣町遠阪

日向に乗り、「レイテ沖海戦」を戦った山中喜平治さん=丹波市青垣町遠阪

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 1944(昭和19)年10月、米軍がフィリピンのレイテ島への進攻を開始する。日本軍は陸海軍が協力して決戦を挑む「捷(しょう)一号作戦」を発動。丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)も、航空戦艦「日向(ひゅうが)」で出撃する日がやって来た。

 「とうとう来たと思いましたな。これは海軍の連合艦隊最後の激戦になるじゃろう、というようなことを聞きました。集められて、上官から『出撃するぞ』と聞いたときは、『よっしゃ、やるぞ!』という大きな声があちこちから聞こえましたな」

 フィリピンを奪われれば、日本は南方からの資源輸送が断たれる。連合艦隊は、日本から出動する小沢治三郎中将の機動部隊が米艦隊をフィリピン北方に引きつけ、その間に主力艦隊が、米軍の上陸部隊が集まるレイテ湾に突入する作戦を立てた。主力艦隊は栗田健男中将が指揮し、ボルネオ島のブルネイから出撃。戦艦大和、武蔵を擁していた。

 「日向は囮(おとり)部隊として、敵の目をこっちへ向けさせるんじゃと聞いとりました。うまいこと敵を引き寄せられたらいいなと思ってました。本音を言えば、華々しい本隊に参加したいと思っとりましたけどな」

 「軍艦日向戦時日誌」によると、10月18、19日のくだりに「出撃準備ニ従事」とある。

 「18日は、故郷の熊野神社の例祭の日でしてな。これは運がええ、日本が勝てるように神さんが守ってくれとってやと思いました。戦時中、熊野神社には武運長久を祈るため、但馬や京都の福知山の方から大勢の人がお参りに来とりました。『千社参り』いうて、お社に札がいっぱい張ってありましたです。千人針みたいなもんですな」

 10月20日、小沢部隊が豊後水道を南へ下った。ともに航空戦艦の「日向」「伊勢」のほか、空母4隻、巡洋艦3隻、駆逐艦8隻の布陣だった。航空機は直前の台湾沖航空戦で多くを失ったため、108機をかき集めるのがやっとだった。

 「日向と伊勢の飛行甲板に、飛行機はありませんでした。残念じゃと思いましたな。ほんでも空母が4隻おるさかい、日向は戦艦として空母を守るんじゃと思てました」(森 信弘)

2013/12/14
 

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