神戸大空襲の2日後の1945(昭和20)年3月19日、広島県呉市は初めて米軍の空襲を受けた。呉軍港には、丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)が乗る航空戦艦「日向(ひゅうが)」をはじめ、多くの軍艦が停泊していた。
「内地の空襲がひどなっとることは聞いとりました。それでも、呉よりもっと大きな都会が狙われとると思っとりました」
呉市史によると、19日の空襲は、硫黄島攻略と沖縄上陸の支援が目的で、停泊中の軍艦が狙われたとされる。米空母艦載機の攻撃を受け、日向は損傷、乗組員から戦死者が出た。その後も米機の来襲は続く。このころ機銃の射手だった山中さんはけがをした。
「夜か朝か、空は暗かったと思うんですけど、にわかに敵機が襲って来ました。私の3連装機銃は、別の射手が電動で動かしとったんですが、私はそれがきかなくなった場合に備えて、機銃の照準器をのぞいとったんです。そしたら大きな振動があって、左あごと太ももを自分の機銃に打ち付けましてね。あごがむくれました。このとき、機銃の電動も壊れてしまいましたな」
「それから12日間ほど入院しました。大したけがではないと思ったんですけど、上官に病院に入ってこいと言われましてな。退院したら下士官から『山中よ、お前は悪運の強いやつじゃ』と言われるんですわ。私がおらん間に、戦艦大和が沖縄へ水上特攻に行くので、機銃が使える兵隊を補充しに来とったらしいんです。『お前もおったら、特攻に行っとったんやぞ』と言われましたです」
大和は4月6日に出撃、翌7日に米軍機の猛攻撃を受けて鹿児島・坊ノ岬の西で沈んだ。大和ミュージアム(呉市)によると、乗組員のうち3056人が命を落とした。
「日向はそれから『海の要塞(ようさい)』として、呉軍港近くの情島(なさけじま)のそばに固定されましてな。前も後ろもいかりを下ろしたと聞きました。私の3連装機銃は右舷でしたで、前方に内地が見えとりました。情島はちょうど真ん前にありましたな。動かす燃料もないので、日向はずっとここにおるということでした。追い詰められとると感じましたな」
日向の最期のときが近づいていた。(森 信弘)
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