丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)が乗り込んだ航空戦艦「日向(ひゅうが)」は、フィリピンのレイテ沖海戦から帰還した後、「北号作戦」の命令を受けた。戦闘ではなく、南方から航空燃料や生ゴムなどの物資を日本に持ち帰る。1945(昭和20)年2月のことだ。
「物資はシンガポールで積み込みました。生ゴムは、1メートル四方ぐらいに折りたたんでましたな。亜鉛は15キロぐらいの塊を、2日ぐらいかけて五、六百人で船の居住区に積み込みましたです。航空燃料のドラム缶の上には、爆弾が当たってもべっちょないように、生ゴムをかぶせとると聞きました」
「東シナ海に入ったころでした。上空に敵機の編隊がおるけど、雲が分厚いので、よう降りへんのやと聞きました。こっちは航空燃料をいっぱい積んどるさかい、運を天に任せて帰るしかない。上官がそんなことを言いよりましたな。豊後水道の入り口は敵の潜水艦がおって危険なので、関門海峡へ回って、呉軍港に戻りました。着いたときは、無事に帰ったというより、役に立てたということがうれしかったですなあ」
北号作戦の後、日向の乗員に休暇が出た。山中さんは軍隊に入って初めて、丹波に帰郷することにした。
「広島の呉駅から乗り継いで、福知山線の柏原(かいばら)駅に着いたら昼でした。乗り合いバスはいっぱいやったんで、途中の母親の実家まで歩いて、そこで自転車を借りたんです。遠阪村に着いたら晩でした。役場に明かりがついてたんで寄ったら、顔見知りの人がおりましてな。『おお山中君、海軍は大勢人が死によるじゃないかいな。軍艦はあるんか?』と聞かれましてなあ。それで『ようけようけありまっせ』と答えときました」
「両親は、そらびっくりして喜びましたです。祖母や小さな弟、妹もおりました。朝には呉に帰らんなんで、すぐに餅をつくってくれましたな。おやじがきねでぺったんぺったんついてね。私は土産に砂糖を持って帰っとりました。甘い物が好きでしたでな。母親に、餅にあんこを入れてもらいましたです」
「次の朝10時ごろに家を出て、京都の下夜久野(しもやくの)駅まで歩いたんです。おやじと細い峠道を歩いて越えていきました。互いに弱気なことは言えません。これで会うのはもう最後じゃろなと思ってましたで、寂しさは幾分あったかもしれませんけどな。でも戦死は当たり前じゃと思っとりましたで、行くんが嫌じゃということはなかったです」
一夜の帰郷で呉に戻った。待っていたのは米軍の空襲だった。(森 信弘)
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