1943(昭和18)年11月、丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)は航空戦艦「日向(ひゅうが)」に乗り込んだ。25ミリの3連装機銃を受け持ち、山口県の柱島(はしらじま)付近で訓練に明け暮れた。
「訓練に出たら、一月以上は呉に戻りません。日向の訓練は、同じ航空戦艦の伊勢とともに『鬼の日向か、蛇の伊勢か』というくらいの厳しさで、毎晩のように尻をたたかれました。夜9時の巡検(じゅんけん)が終わったら、古参の兵長が兵長以下の者に文句をつけましてなあ。1人ずつたたかれるんです。敬礼して足を広げて突っ張って。ほんで各班へ帰ったら、さっきたたかれた兵長が『お前らが悪いさかいじゃ』いうて、下の者をまたたたきます。もっとも、これが勤めじゃと思っているうちに慣れましたがな」
「師範学校を出た兵に、筋の通らんことに反抗的な人もおりましてな。それを上の者が平手で殴ってねえ。気を失ったら防火用水のおけで水をかけて、目が覚めたらまた殴るんですわ。あれは気の毒でした。訓練中は外出できんので、気が荒くなるんですな。駆逐艦とか小さい船は、和気あいあいとしとったようですけど」
3連装機銃は1基につき9人が張り付いた。山中さんは訓練を懸命にこなした。
「まず『右何度、高度何度』と指揮をする機銃長がいます。それに、機銃を左右に回す旋回手がいて、上下に動かして撃つ射手がいます。あと15発入りの弾倉を入れ替える者が6人おりました」
「日向では2基の機銃を電線でつないでありましてな。真ん中でハンドルを持つ射手が別におって、電動で2基を自由に動かして撃つことができました。戦闘で電線が切れたら、1基ごとに動かして撃たんとあかんのですけどな。訓練では弾倉を詰めたりどけたり、部品を交換したり、射撃したり、いろんな命令に応じてやっとりました」
「実弾を使った機銃の射撃訓練は、日向全体で1回だけでした。弾がもったいないんか、後は空砲ばっかりやったんです。実弾訓練では、飛行機に100メートルか200メートルのワイヤで吹き流しをつけてな。パンパンパンと5、6発撃ったら、見事に吹き流しが外れて落ちましたでね。こりゃ命中率満点じゃと思いましたな。実戦でも絶対落とせる、べっちょないと思てました」(森 信弘)
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