小沢治三郎中将の囮(おとり)艦隊への空襲は、1944(昭和19)年10月25日の朝に始まり、夕方まで続いた。丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)が乗る航空戦艦「日向(ひゅうが)」も米軍の猛攻撃をしのいでいた。
「私らは敵を引きつけとると思っとりました。本隊(主力艦隊)はうまいこといっとんのやろかと、そら心配でしたな。ほんでも、何も知らせてもらえませんでした」
小沢艦隊は、味方に米軍が囮にかかったことを知らせる電報を打つ。しかし、栗田健男中将が率いる連合艦隊の主力部隊は、攻撃目標のフィリピン・レイテ湾を目前にしながら反転、後に「謎の反転」と言われた。なぜ突入しなかったのか。電報は何らかの原因で栗田中将に届かなかったとされるが、反転決断の理由は今もはっきりしない。
「私らの艦隊は全滅こそまぬがれましたが、4隻の空母やほかにも船が沈んでしまいましたでね。かわいそうやな、ということは話しよりました。『撤収』と聞いたときは、確かにほっとしましたな。なんで敵は最後までやらんのやろとも思いました」
日向では、この海戦で少尉が1人戦死している。「軍艦日向戦時日誌」に、10月26日19時45分に水葬をした記録がある。広島県の呉海軍墓地に立つ軍艦日向慰霊碑には、「長野県 村松幸太郎」という名が刻まれている。
「私の分隊の人で、大学を出たと聞いとりました。飛行甲板の一番後部の3連装機銃を指揮しとったんですが、敵の機銃の弾が当たったんです。少尉の持ち場に分隊の百数十人が集まりまして、遺体を軍服の上から軍艦旗で巻きましてな。4、5人で海の中へ入れました。スピードが出とりますでな、白波がごっついこと立っとりました。かわいそうなもんですわ」
「その後、フィリピンから奄美大島に寄って、艦隊の駆逐艦が海で救助した兵隊を収容しましたな。小さい駆逐艦にごっつい人が乗っとりましたなあ。豊後水道に入るまでは敵の潜水艦がようけおりますで、魚雷には警戒しとりました」
連合艦隊はレイテ沖海戦で、戦艦武蔵をはじめ多くの艦船を失い、事実上、壊滅した。10月29日、日向は呉軍港に戻った。(森 信弘)
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