丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)は、1944(昭和19)年4月、1等兵から上等兵に階級が上がる。まだ実戦経験はなく、航空戦艦「日向(ひゅうが)」に乗り、山口県の柱島(はしらじま)付近での訓練が続いた。
「日向の艦内では水に不自由しましたですな。洗面器1杯で洗顔も歯磨きも、みなせんなんで。風呂は海水のがありましたけど、塩が付くんで嫌やったんです。だから体は洗面器3杯だけで洗ってました。それも1週間に1回、あるかないかでしたな」
「中国大陸では、食料に苦労したと聞きましたが、日向では食べ物だけは困りませんでした。訓練の間はずっと麦ご飯でしたな。金属の茶わんで食べてました。ただ、どうしても野菜は少なかったです。ジャガイモを丸ごと炊いたのが2、3切れ出てましたな」
艦内には、酒保(しゅほ)と呼ばれる売店があった。酒やまんじゅう、タバコなどの日用品を売っていた。
「酒保は兵長くらいにならんと、遠慮してあまり行けません。酒を飲む人は不自由したと思います。私は兵隊に行くまで、毎年冬になったら神戸の灘に酒造りの出稼ぎに行っとったんですけど、酒は全然飲めませんでしたな。その代わり甘い物は好きでねえ。配給でまんじゅうをタバコやらと一緒にもらったときは、ようさん食べました」
「手紙は、たまに家族や親戚から来よりました。『みんな元気でおる』とかしか書いてませんけど、うれしかったですな。風紀を取り締まる下士官がおって、内容を確かめるでね。意気地がないように思われることは、書けんのです。出すときも、決まり切ったことしか書けませんでした」
訓練の合間に呉に入港すると、日曜日は休むことができた。朝から外出することも認められた。
「上陸したとき、空母に乗っていた同年兵に会って『お前、戦争行ったか』と言われましてな。そんときは、早(はよ)う戦場に行きたいと思いました。『敵の飛行機がようけ来るで怖いでよ』とも言われましたけど、怖いとは思いやしませんでしたなあ」
44年7月、サイパン島の日本軍が玉砕。日本が確保を叫んでいた「絶対国防圏」が崩壊する。日向の出撃が迫っていた。(森 信弘)
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