終戦を迎え、空襲で負傷した丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)はいったん帰郷し、京都府舞鶴市の病院に入院した。年が明けて1946(昭和21)年2月初め、入院中の山中さんは、航空機の整備兵だった4歳下の弟が、フィリピン・ルソン島で戦死したことを知らされた。
「母親が面会に来ましてな。舞鶴の駅は、引き揚げてくる人らでごった返しとったらしいです。みんな元気で帰りよってやのに、弟は戦死、私は大けがをして『なんでうちの子ばかり不幸な目に遭うんじゃ』と言うて、母は涙をぽろぽろ流しとりました」
「遠阪村に帰れたのは2月の下旬でしたな。弟の遺骨が届いたんですけど、木箱の中は空っぽでした。激戦じゃったんでしょうな。陸軍でフィリピンに行った者から、人肉を食べた話を聞いたこともあります」
「尋常高等小学校の同級生は、男子25人のうち7人が戦死しました。墓参りには全部行きましたです。自分だけ生きて帰ってしもてこらえてくれと、ほんまに申し訳ない気持ちになりました」
戦後、山中さんは農業をしながら土木工事の現場、大阪の工場などで懸命に働いた。
「同級生は、みんな国のために命は捨てて頑張ろうと、約束して出て行ったんです。年をとればとるほど、自分だけ生き残って申し訳ないという気持ちが強うなります。だから、戦争が終わってからのことを詳しく覚えといて、あの世へ行ったらみんなに話してあげんなんと思っとります」
「まず第一に、もう戦争に行かんでもいいようになったこと。それから、日本がいろんな方面で発展したということを、一つ一つ話さんなんと思っとるんです」
山中さんが乗り込んだ航空戦艦「日向(ひゅうが)」が沈んだ日から、ちょうど50年の1995(平成7)年7月24日。山中さんは長男と一緒に広島県呉市を訪ねた。そして、沈没現場の情島(なさけじま)付近が見える海岸を探した。
「戦死者の霊を慰めようと思ったんです。花束を買いましてな。私は両目が見えんようになってましたけど、向こうが情島じゃと教えてもらいました。花束を海へ投げて『良い所へ行ってください』と頭を下げましたです」
「戦時中、戦死者は1人ずつ村葬をしてもろとりました。今は『戦争があったそうな』というくらいなもんです。どれだけ遺族がつらかったんかも、うわさ話みたいになってしもて、かわいそうに思います。今は亡くなった人のために、平和が続くよう少しでも協力したいと思っとります」(森 信弘)
=おわり=
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