1943(昭和18)年8月、丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)は、神奈川県の横須賀海軍砲術学校普通科に入学した。練習生として、対空機銃の操作を学ぶ班に入れられた。
「受けるときは大砲のことばかり考えとりましたで、機銃と知ってびっくりしました。英語の『え』の字も知らなんだのに、電気関係の呼び名とかは英語が多くて、大変でした。学校の期間は3カ月に短縮されとりましたで、授業は『分からんでも分かれ』という感じで、どんどん進んでいきましたな」
「赤い表紙で機銃の構造が書かれた本を習うときは、特別な部屋に集められました。授業が終わったら本を返してから出るんです。ほんで試験が再三ありましてね、晩は消灯しますで、トイレの豆電球で一生懸命、勉強しとりました」
3カ月後、砲術学校を出た山中さんは、航空戦艦「日向(ひゅうが)」に配属される。
「そのころはもう大和ができとりましたし、日向は古い船じゃなと思とりましたんやけど。日向は長崎の佐世保のドックにありましてな。横須賀から汽車で行ったんです」
日向は、18(大正7)年4月、戦艦として建造された。太平洋戦争が始まると、同型の戦艦伊勢とともに後部を飛行甲板に変え、航空戦艦に改装された。日本は42年6月のミッドウェー海戦で精鋭の空母4隻を失い、空母が必要だったが、完全な空母への改装は、工期が長すぎることなどから見送られた。
「佐世保に着くと、改装がおおかた出来上がったところで、甲板に電線がいっぱい出とりました。戦艦を見るのは初めてでしたで、大きなもんじゃなあと思いました。船体が200メートルほどもありましたでな」
日向の「改装要目簿」によると、全長は219・6メートルで爆撃機22機を搭載できた。改装によって対空火器を大幅に増強。高角砲は16門、口径25ミリの機銃は3連装が19基で計57門となった。
「これからは飛行機を撃つ兵器がないとあかん、ということでした。私が受け持つ3連装は右舷後部の中央寄りにありましてな。外へ張り出してましたで、下を見てうわっ高い所じゃなあと、びっくりしとりました」
(森 信弘)
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