1945(昭和20)年7月24日、航空戦艦「日向(ひゅうが)」の甲板にいた丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)は、米軍の空襲で負傷し気を失った。ほかの負傷者とともにトラックの荷台に乗せられ、広島県東広島市黒瀬町の病院にかつぎこまれる。
「丸2日間、気が付かなんだらしいです。ベッドの上で目覚めたら、看護婦さんが『山中さんが気が付いた』と大きな声を出しましてな。バンザイをしてくれて、お医者さんやらも大勢集まって喜んでくれたんです。死んだと思われて、ようほられなんだもんやと思いました」
「左目の真ん中に、爆弾の破片が入っとりました。左頬もかすって、血がようけ出とったらしいんです。破片は、今も股とか体のあちこちにいっぱいあります。右脚を貫通もしましたで、長いこと歩けませんでした。日向が沈んで残念じゃと思いましたけど、あれだけやられたらしゃあないと思いましたな」
約2週間後の8月6日、広島に原子爆弾が投下される。山中さんは、病室からきのこ雲を見た。
「きつい雷のような光がピカッとして。煙がまっすぐふぁーっと上がりました。私は寝たままで、右目だけでしたが、よう見えました。それからお医者さんらに集合がかかりまして、出て行きました。晩に帰ってきた看護婦から、人間が真っ黒になっとったと聞きましたです。もうあかんと思いましたな。ただそれでも、最後の一兵までやるんやと思てました」
「8月15日に日本が降伏したのも、看護婦さんが教えてくれました。みんな泣きだして、私もがっくりしてしまいました。そしたら、急に親に会いたいという気持ちになりましてなあ。会いたいという気持ちばっかしです。それで故郷に近い舞鶴の病院に転院できるというんで、途中で家に寄れるようにしてもうたんです」
「8月の24日ごろやったと思います。貨物列車に乗って帰りました。顔に包帯を巻いて、松葉づえをついてました。京都の下夜久野(しもやくの)駅の近くまで、両親や妹が近所の人とリヤカーを引いてきてくれましてなあ。ずっと国のために、一生懸命やらんならんとばっかり思ってきたんです。それがなんでこんな気持ちになったんやろうと思うくらい、うれしかったです。みんなによう帰れたなあ、と喜んでもらったのを覚えとります」(森 信弘)
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