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(11)安息の場 弱者視野に普段の備え
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 オアシスのようだった。

 西宮市染殿町の市総合福祉センターに隣接する重度肢体不自由者通所施設「青葉園」。震災の朝、マイクロバスやタクシーで通所者の家々を安否確認に回った職員たちに導かれるように、家族たちは園に避難した。午前中だけで十家族、約三十人を数えた。

 辺りは停電していたが、自家発電装置が働き、床暖房が効いた。宿泊研修用に備えてあった食料も使えた。三十人分の米三日分、卵、野菜…。

 専用避難所を閉じる四月末まで、「関連死」の悲劇は一件も起きなかった。

 「もし青葉園に行けなかったら、子供を車の中に寝かせたまま、何日も過ごすしかなかった」と、通所者の母は振り返った。

 十八歳から五十二歳までの四十八人が通った。難病を患ったり、抵抗力の弱い障害者が多かった。地震直後、そうした障害者らと暮らす家族が行き場をなくし、悲劇につながったことはすでに触れた。その一方で、見事な対応をした施設もあったのである。

 同園の避難者の中には、抗てんかん薬をなくした人がいた。だが、園では通所者の薬が変わるたびに、その名称と分量を現物の薬と一緒にファイルしており、なくした人には分量のよく似た通所者の薬を与えてしのいだ。

 清水明彦園長は「薬の管理はプライバシーにかかわり、責任が重いので敬遠する施設が多いが、園では十年前から続けていた。通所者の通院に必ず職員が付き添い、診察の場にも立ち会っており、震災ではその知識が生きた」と話した。

 薬の管理にはきっかけがあった。十数年もの間、診療を受けないまま同じ薬を飲み続けていた通所者がいた。老いた親が付き添えずに通院できなかった。十年も前のことである。以来、通所者の通院に職員が必ず付き添い、診察に立ち会うようになった。

 そんな経験は、大病院の専門科のほかに自宅近くの開業医や園の向かいの診療所など、複数の医療機関でカルテをつくる習慣にもなった。混乱の中、いずれかの医師と連絡が取れ、指示が受けられた。

 「施設では普段とほとんど同じ生活ができ、緊張感を和らげることができた」。難病の通所者をもつ親は話した。

 普段からの備え。震災時、被災地には力を発揮した施設は少なくなかったが、尼崎市北部の特別養護老人ホーム「園田苑」もその一つ。

 やはり震災直後から緊急入所を受け入れる一方、近くの避難所におにぎりを届けた。一月末から職員たちがほぼ毎日、避難所をまわり救援物資を届け、高齢者を支援した。そこには保健婦やボランティア、入所者の家族も加わった。

 「天国にいちばん近いところ」。避難所から同苑に移った女性は感謝の気持ちをそんな言葉で表した。感激した女性は、手にした義援金を施設に寄付した。

 「園田苑」の合言葉は「福祉施設は地域のよりどころ、共同利用施設」である。ボランティア、地域住民らの出入りは自由で、バザーや研修会場として地域に開放されてもいた。

 中村大蔵施設長は「緊急時には、ソフト面の柔軟な対応が必要とされる。日ごろから地域との連携やヒューマンラインをもつことが大切」と語った。

 震災後、「青葉園」には週一回、嘱託医が詰めるようになった。医師は一日中、通所者に寄り添い、容体管理に当たる。医療との連携の姿が、そこにある。

1996/2/17
 

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