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(7)診療所と病院 在宅患者の対応で明暗
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 「ふだんは地域の診療所(開業医)が診て、緊急時には病院へ運ぶ。当たり前の体制がおろそかになっていた」

 神戸市立中央市民病院呼吸器内科の長谷川幹医師は漏らした。平島信夫さんは、同科の在宅患者であり、地震のほぼ一カ月後に亡くなった。七十五歳だった。「容体を早めにチェックできておれば、あるいは…」。今も長谷川医師は悔悟に似た思いにとらわれる。

 平島さんは肺結核の後遺症で、二年前から酸素供給装置が手放せなかった。長い管を通して鼻から酸素を入れ、呼吸を助ける。これがないと、呼吸が苦しくなる。異常に気付いた時には手の施しようのない場合が多い。平島さんもそうだった。だからこそ近くに掛かり付け医が必要だった。

 震災で兄を失い、携帯用の酸素ボンベを抱えて葬儀に出た。家では水くみを手伝うほど元気だった。ところが、二月十二日に突然、呼吸困難で倒れた。酸素供給装置を付けていたにもかかわらず、自覚症状のないまま血中の酸素濃度が薄くなり衰弱、意識不明に陥り四日後に亡くなった。

 呼吸器内科は「精神的、肉体的疲労が大きく影響した」として、震災との関連が濃厚とみる。

 同科の抱える在宅酸素療法患者は百二人に上り、平島さんを含め、地震から二カ月以内に、うち十四人が死亡した。過去二年間で同期の死者は各三人。十四人という数字を、呼吸器内科の論文は「明らかに異常」と記した。

 震災直後の同病院は、交通手段もライフラインも途絶して機能がマヒ、市街地からも孤立し、入院患者の対応で精いっぱいだった。近くに掛かり付けの医者をもたず、病院だけが頼みの患者は寄り付くこともできなかった。

 地域に密着したまち医者はその点、小回りが利き、危機対応が素早かった。

 八人の在宅酸素患者を持つ尼崎市の浅井信明医師は、被災程度が軽かったとはいえ、震災当日から診療を受け付け、翌十八日までに全員の身の安全を保った。

 震災後の環境悪化は酸素療法患者に限らず、あらゆる呼吸器疾患の患者への影響が懸念された。避難所へ逃れた在宅患者たちは、医師の細かなフォローを待ち望んでいた。

 公害病患者でも避難していた人は少なくなかった。約八百五十人を診ている野村医院の野村和夫医師は、震災の翌々日から往診を始めた。所在を確認しつつ、避難所に通った。

 体育館の階段や廊下に被災者があふれていた。冷気に満ち、ほこりが舞っていた。最も避けなくてはならない環境に公害病患者は置かれていた。体調を崩した患者を見つけだして治療、悪い患者を病院に送った。

 「尼崎公害患者・家族の会」によると、震災から三カ月の間に市内の五十八人の患者が亡くなった。前年のほぼ倍に達する数字だ。

 大病院が患者を抱える背景には、患者自身、まず掛かり付け医にチェックしてもらわなければという意識が乏しかったことがある。まち医者はまち医者で、専門の知識を身に付けなければならない負担感があった。診療報酬の問題や付き合いのないところで病院との連携を保つ難しさを指摘する医師もいる。

 長谷川医師は「病院も診療所も互いの役割を認識してふだんから連携が必要だ。在宅患者を地域医療機関へ分散させ、診療所と連絡を密にする方法を考えなければ」と語った。

 以前から指摘されてきたことの意味が震災で問い直された。

1996/2/12
 

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