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(8)極限下の弱者 平等扱いが招いた悲劇
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 重度の痴ほう症だった岡本ひろえさん=仮名=は、避難所の体育館で四日間過ごし、二月五日に亡くなった。

 五日目に親類の車でやっと福祉施設に運び込むことができたが、熱は三八度あり、二月一日に容体が急変した。医師は「避難生活がこたえたようだ。施設に着いたとき、すでに肺炎だったのではないか」と推測する。

 ひろえさんは震災前から寝たきりで、一緒に避難した娘の友枝さん(56)=同=のことも理解できないほどだった。

 神戸市長田区の自宅は、全壊判定を受けた。友枝さんは震災当日の午後、ひろえさんを車いすに乗せ避難した。体育館の入り口近くしか空いていなかった。

 友枝さんは車いすから降ろし楽にさせたかったが、寝かせるとおむつで洋服がぬれるし、緊急時の避難をさせやすいと考えて三日間、車いすで過ごさせた。この間、気温は最高でも八度までしか上がらず、零度前後まで冷え込んだ(神戸海洋気象台調べ)。昼も夜もドアは開けっ放しにされ、冷蔵庫のように寒かった。食べ物もほとんどなかった。そんな中で、ひろえさんは衰弱していったようだ。

 友枝さんは「今度また災害が起きたとき、母のような死だけはなくしてほしい」と話した。

 震災当日から同僚らと在宅患者宅や避難所を回った神戸医療生協「番町診療所」の久保イネ婦長(54)は、避難先の小学校で高齢者が廊下にいるのを何度も見た。

 忘れられない光景がある。震災三日目。二階がへしゃげ、ドアの折れ曲がった家で、障害者で寝たきりの男性患者(70)が独りでいた。知り合いの久保さんの顔をみるなりぽろぽろと涙を流し、「ここで死ぬねん。避難所に行くと迷惑になるから」と言った。

 割れたガラス戸から風が吹き込む。妻は、昼間を自宅で、夜を障害者の息子と避難所で過ごした。

 男性は三月に肺炎で入院、四月に亡くなった。

 久保さんは「悔しくてかなわんのです。高齢者や障害者は避難の判断や行動が遅れたりしてトイレに近い場所を選んだ。弱い人がみんなの中で暮らすのは無理があった」と声に怒りを込め、「看護しかできなかった私にも責任がある。”災害弱者”への対応の大切さを痛感した」と語った。

 「高齢者や障害者は特別扱いする必要があるという市民の共通認識があれば、犠牲は少なくできた」と話すのは「阪神高齢者・障害者支援ネットワーク」の世話人の一人、診療所長の梁勝則医師(40)。

 梁医師は最初、気付かなかった。長田の北部で診療を再開して十日目。「避難所に高齢者を放っておくと死んでしまう」と、東京から来た知人に指摘され、はっとした。

 避難所へ行くと、高齢者も障害者も冷たい床に寝ていた。ボランティアが暖房を要求しても許されなかった。

 「平等に扱っていてはかえって不平等を生む。このままでは弱い者から死んでいく」。福祉施設長と高齢者専用避難所を開き、高齢者保護を始めた。同ネットワークの初仕事だった。

 梁医師は「普段弱い立場にある人が”災害弱者”となりやすい。見捨ててはいけないというメッセージを市民の手で発信していくことが大切」と語った。

 神戸市は地域防災計画で、震災時に、弱者支援を行う拠点を設ける方針を打ち出した。安否確認や情報提供、支援者の派遣などが遅まきながら盛り込まれようとしている。特別な扱いがやっと”市民権”を得る。

1996/2/14

 

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