子供のころの面影をほんの少し残す、かつての教え子たちの姿があった。きょう、一周忌の命日を迎える濱川哲哉さん=当時六十四歳=の法要は四日、西宮市内のお寺で営まれた。厳しく、面倒見のよい先生だった。参列者は手を合わせ、無言で語りかけた。
「満足な治療も施せず、衰弱していく姿を見るのがつらかった」。妻の加賀子さん(60)は、長かった一年を振り返った。沈む心を救ったのは、ときおり訪ねてくれる教え子たちだった。「私たちの子供だ」と思った。
地震が襲ったあの時、眠っていた夫の上に、積み上げていた長机とタンスが崩れ落ちた。木製の長机は、塾を開いた際、特別に作らせたものだ。夫婦の四十年の歴史が染み付いていた。
下敷きを免れた加賀子さんが、一時間かけて助け出したが、夫の体は青あざだらけ。タンスの角に直撃された左胸を、とりわけ痛がった。
夫は大学卒業後、神戸市内で塾を開いた。最盛期、三つの教室を持ち、百人以上の生徒がいた。経営に行き詰まり、十三年前に尼崎へ来た。新しい塾は小中学生対象の徹底した指導が評判を呼び、口コミで生徒も増えた。「新学期から本格的に生徒を集めよう」と、チラシ四万枚を印刷した矢先だった。
加賀子さんは救急車を呼んだが、いくら待っても来ない。自転車に乗せて運んだ近くの病院は、けが人であふれていた。二時間待った。水はない。寒さに震えるだけ。診察は受けられなかった。
「死んでしまう。わがままがきくだけまし」と自宅へ戻った。加賀子さんは思いつく限りの病院に電話した。だが、「十分な治療はできません」と言われ、自転車に乗って湿布薬などを買い集めるのが精いっぱいだった。
痛みとショックで何も口にしなかった。余震や救急車のサイレンが聞こえるたびに「もう耐えられない」とうめき、その一方で「高校入試が迫っとる。みんな大丈夫かな」と生徒を気遣った。
二月一日から中学生相手に塾を再開した。いつも通り大きな声で講義を進めた。だが生徒が帰ると、ぐったりして眠りについた。「勉強を教えながら死ねたら本望や、言うて教壇に上がっていた」と加賀子さんは話す。
「県外に出れば診察が受けられる」と声を掛けても、「この体じゃ、そこまでもたん」と応じなかった。
五日深夜、突然苦しみだした。救急車を呼んだが搬送先がすぐに見つからない。「息苦しい、空気がない」「病院はまだか」。約二十分後、やっと伊丹市内の病院に入った。が、血圧が下がり、処置の施しようがなかった。六日未明、眠るように息を引き取った。心筋梗塞(しんきんこうそく)だった。
厳しい冬が終わって三月、最後の生徒から「志望校に全員合格」の知らせが届いた。加賀子さんはホッとした。と同時に夫の苦労が報われたように思った。
尼崎市は、被災後十分な治療を受けられなかったことに原因があったとして、四月、濱川さんを「震災関連死」と認定した。
「病院があるのに診察を受けられない悔しさ、無念の思いは消えません。でも生活は容赦なくのしかかってくる。泣いても始まらない。主人の思いを絶やさぬためにも塾を続けたい」
加賀子さんは昨年四月から、数人の小学生に教える。一周忌を区切りに、塾を本格的に再開するつもりだ。あのチラシを使って。
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阪神大震災では約六千三百人が犠牲となった。その後に亡くなった「関連死」は、市町に認定されただけで八百二十七人にのぼる。病死、仮設住宅などでの孤独死、自殺。認定かなわぬまま、ひっそり亡くなった人も多い。紙一重で生を得ながら、なぜこれほどの人々が命を落とさねばならなかったか。無念の思いをたどった。
1996/2/6