■確かな技術に自信 不況時は痛み分け合う
朝八時半。新長田駅周辺の路地がにぎわい始める。ミシン場へと向かう女性たちが自転車を止め、仕事前のひととき、声高に立ち話に興じていた。
「女性が年齢(とし)いって、人数が減ったことを除いたら、昔からちっとも変わらん風景やな」
その道四十年、ミシン場の仕事一筋にかけてきた大西克孝(かつこ)さん(59)は、明るい笑顔で話す。
大西さんは一九五七(昭和三十二)年、大手のケミカルシューズメーカーに就職。工場の下手間作業から始め、やがてミシンを踏むようになった。腕に磨きをかけ、二十人ものミシン工をまとめる班長に昇進したころ、運悪く会社が倒産してしまう。
自前の大西ミシン加工所を興したのは六七年。同僚九人がついてきてくれた。知り合いのミシン業者は「支払いは後でいい」と、ミシンを置いていった。
深夜を回る作業を終え、気兼ねしながらシャッターをそーっと下ろすと、近所の人が窓越しに「遅くまでご苦労さん。気いつけて帰りや」と、声を掛けてくれた。
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「真っすぐであって、真っすぐでない」。縫製技術の奥深さを、大西さんはこう表現する。
「真っすぐ縫うのは当たり前。けど、靴ズレや型崩れしない靴を作るには、時々ミシンに乗せる足を踏ん張ったり、緩めたりせな」。付加価値をつけようと、厳しくなる一方のメーカーの要求に、技でこたえてきたという自負がある。
だから、仕事をもらうメーカーにも、何の遠慮もしない。これは、どの下請けも同じ。最終工程の組み立て仕上げを行うメーカーの下には、縫製のほか、裁断、のり引き加工などいくつもの工程があり、縦の流れができているが、どこが欠けても靴ができない。それだけに、それぞれが対等に主張し合う。そのかわり不況の時は、少しずつ痛みを分け合う。それが、業界の強みでもある。
下請けのすそ野は広く、正確なデータはない。ただ、日本ケミカルシューズ工業組合の梅垣昭事務局長によれば「家庭内職者を含めると、長田、須磨区の就労者の五人に一人は業界の関係者」だそうだ。
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震災は、大西さんのミシン場を奪った。全焼だった。プレハブで再開したが、独立以来、苦楽をともにした仲間も被災して長田を離れ、七人が職場を去った。
大西さんが仕事帰りに買い物に立ち寄った山吉市場も、シャッターを下ろした店が目立ち、神戸一にぎわったという震災前の面影はない。「ケミカル業界が元気でこそ街も潤うんやが…」。生花店を営む山木薫さん(68)は、唇をかむ。
「あんた、プロやろ。自分がこの靴を買うと思って仕事せなあかんで」。大西さんが縫製の仕上がりを点検しながら、声を張り上げた。
相手は船本晴美さん(31)。ミシン工の世界は、高齢化が進み、若い女性はほとんど入ってこない。貴重な次の世代を一人前に育て上げたいとの思いが、ついつい口調をきつくする。晴美さんも、そんな大西さんの思いは、百も承知。素直にうなずく。
「晴美のような子が、もっとおってくれたら長田も心配ないんやけど」。大西さんは、業界の将来を思いやる。
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毎週水曜日。真野小学校の体育館に、威勢よい和太鼓の音が響く。年に二十回、各地でボランティア演奏する「長田の宮 神撫太鼓の会」の鍛錬だ。
リーダーは三浦清三さん(52)。裁断用抜き型メーカーを経営するかたわら、二十三年間、活動に携わってきた。三十年前、長田に引っ越してきた時「気安く受け入れてくれた恩返し」でもある。
商売の方は、厳しさが増すばかり。一時は、長田以外の大手靴メーカーから受注しようとも考えたが「世話になった地元の仕事がおろそかになっては」と思い直した。今も、その気持ちも変わらない。
「どうにかして業界に元気を出してもらわんとね。そして皆で長田を支えていかんとね」
下町の人情が息づく。
1998/8/27