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(4)ケミカル合衆国 国籍問わない共生社会
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在日韓国・朝鮮人が活躍 組合役員も平等に配分
 桜の若葉が美しく映える四月二十六日。神戸市長田区の長田南小学校で、恒例の「長田マダン」が盛大に開催された。

 赤、青、黄、緑…、色鮮やかな民族衣装で着飾った女性たちが、かねや太鼓に合わせて舞う。朝鮮料理の屋台からは、キムチやチヂミのにおいが漂い、異国情緒をかきたてた。

 マダンは在日韓国・朝鮮人の民族の祭り。朝鮮語で「広場」を意味する。「北」と「南」の壁を超越した祭典には、日本人も大勢参加し、長田のまちに根づいた「共生社会」の一面をうかがわせた。

 長田のゴム業界には、戦前から多くの朝鮮人労働者が働いていた。長田区役所が七七年に発行した「ながたの歴史」は、「大正一五年に千四百十一人だったのが、昭和五年等には、五千三十五人となった」と記す。

 現在も長田区には、全人口のほぼ一割に当たる七千六百人余りの在日韓国・朝鮮人が暮らしている。

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 「長田には、昔から”ケミカル合衆国”という言葉があってな」。

 区内でケミカル業者向けの貸し工場を営む在日一世の李斗鎬(73)は、こう切り出して続けた。「韓国・朝鮮人と日本人が仲良う働くのが、ケミカル業界の伝統なんや」

 李は、五歳で両親を亡くし、二九年、当時二十歳の長男に連れられ、兄弟五人で来日。長男の就職先の養鶏場があった長田に落ち着いた。四男の李は、兄たちの支援で神戸の中等学校を卒業すると、国鉄鷹取工場に就職。兵役を経て、終戦後まもなく、長田で布靴の縫製業を始めた。

 このころ、朝鮮人労働者たちは一斉に独立。多くがゴム加工の小規模な下請け業を営んだ。焼け残った労働者住宅の長屋でミシン縫製を請け負う人も少なくなかった。しかし、めきめき実力をつけ、四八年には兵庫県朝鮮人ゴム工業協同組合を組織する。

 当時の彼らの働きぶりを日本人のある経営者は「家族ぐるみ、星の出ているうちに働きだし、星が出ても手を置かなかった。あれにゃ、とてもかなわんと感心した」と証言する。

 明治初期からのマッチ産業、その後のゴム産業を通して、差別されながら厳しい下働きを強いられた人々。戦後の”解放”の喜びが、すさまじい労働意欲を支えたことは、想像に難くない。

 李も、好景気に乗って事業を広げ、数年で子供靴の完成品メーカーに。五二年には婦人靴生産を手掛け、ケミカルシューズの誕生に一役買った、という。

 「ケミカル業界は、最初から製造工程が、何段階にも分業化していた。だから国籍や思想・信条で対立などしてたら共倒れになる。そんなことは、みんなわかってたから、必然的に共存共栄の社会になった」と、李は話す。

 五七年、日本ケミカルシューズ工業組合の前身、ケミカルシューズ工業会が設立された。スローガンは「東なく、西なく、煙突の大小、民族の如何(いかん)を問わず、一本の旗の下に」。役員配分は日本人、朝鮮人が半々とされた。朝鮮半島の「南」と「北」が対立し、一般には在日の人々と日本人の垣根が高かったが、業界は大きく時代に先んじた。

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 「ここしかないと、覚悟を決めて、働いている」

 靴スポンジ資材を生産する丸藤化学工業の社長で、在日二世の斉藤州弘(56)は言う。

 地元の高校を卒業した斉藤は、同志社大学工学部へ進学。大手企業への就職を目指すが、国籍面で門前払いを受ける。「社会の現実を突きつけられた。ショックだった」。

 だが、長田には、なんらの壁もなかった。斉藤は東京の零細な化学メーカーに就職して経営のノウハウを学び、七四年に長田へ戻って同社を興した。結局、父のかつての仕事を継ぐ格好となった斉藤は、力をこめて言い切る。

 「長田を、ケミカル業界を愛する気持ちは、年々強くなる。今は誰にも負けない」。                 (文中敬称略)

1998/8/22
 

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